
函館の駅前ホテルに「北海道関連」コーナーがあって司馬遼太郎「街道をゆく」(15巻目)が置かれてあった。夜景を見ながら・函館の歴史・高田屋嘉兵衛・松前氏の成立などぱらぱらめくっていると「関寛斎」の項目があった。だれだろうと読み進むと、1830年に九十九里浜生まれ。蘭学を学びに長崎まで行き、医術に秀でて官軍側の負傷者を介護し、十分、新政府の中で栄達できた一人の男が、突然、阿波徳島藩(蜂須賀家)に帰り、その町で病院を開いて、貧しい人からは金銭もらわず診療、当時流行の種痘を無料接種。さらに一念発起して満73歳(明治35年)に妻(愛子)とともに北海道陸別町(当時は斗満・トマム)に開拓するために移住する話が書かれてあった。「ああ山林に自由存す」と歌った自由思想家徳富蘆花やトルストイの影響もあって、原始林を川伝いにアイヌの船でさかのぼり、米や塩・醤油など運んでいった。そこで原始林を73歳の老躯を鞭打って伐採し、さらにアイヌの人たちには無料で医療を施し、保健衛生と健康の大切さを説いていたという。現在でも陸別は道内でも冬には最低気温を記録する町である。克明に日記もつけていて60代の半ばから北海道の開拓民になりたい願望があったらしいと司馬さんの本には書かれてあった。「自分に虚飾が付着することを病的に嫌った」(司馬さん評・366p)。虚飾といえば今日でいえば氏・育ち・学歴・属する企業・肩書・職業・出世などだ。明治でいえば〇〇藩や政府の役職名だ。とはいえ、陸別で開墾した土地は、無償で近在農民に与えていったというから凄い。有島武郎が狩太村(現在ニセコ町)の農場を小作人に分けたのとは次元が違う。関寛斎は奥さんを入植後2年の明治37年に病気で亡くす。相当な落ち込みではあったが、さらに8年頑張るが大正元年10月15日、服毒自殺した。83歳であった。司馬遼太郎は、関寛斎さんのことが忘れがたく、名作「胡蝶の夢」全5巻の一番最後に、「陸別」と付け加えて14ページにわたって彼について書いている。(248p~262p)こんな人が明治にいたのだ。背骨にある思想というか信念の強さに感動してしまった私である。
さらに司馬さんはさりげなく次の1行を書いていた。
寛斎が晩年に到達した心境は・・・医とは、結局まやかしにすぎない。という思想に全身をさらわれたのではないかと仮に思ったりする。(胡蝶の夢 248p)

陸別にはクルマのタイヤメーカーのテストコースがあり、鏡面のような凍結路面コースや、深雪のダートコースまでがあり、私も輸入車のイベントでカメラ持参で行きました。旭川のホテルから早朝に貸し切りバスで向かいましたが厳しい自然環境の中にありました。カメラのバッテリーも不具合を起こし、焦りました。コース入口では乗用車もバスも全て足回りから温水洗車をしなければ通過出来ませんでした。北海道の道路は塩化カルシュウムが撒かれてアイスバーンの氷面を溶かして居る為車には塩カルが付着して居るので、氷上テストコースの氷を解かすからです。陸別の極寒地を選んでタイヤやメカのテストコースなので極端に神経質なのでしょう。そんな土地柄ですから、ましてや時代を考えれば、真冬に暮らす事さえ不可能にも思える土地柄を選んで入植し、それも無償で医療提供など普通の人には考えられませんね。そんな人達の力で支えられ北海道は出来上がったのですね。そこに住む私たちは、そんな先人達の事をもっと知るべきですね。
作家司馬遼太郎さんも関寛斎さんのことは、強烈な印象を残したようで、彼の作品のあちことで関さんを紹介しています。タイヤの冬の走行実験にはいい場所ですが。原野で暮らすとなると若い人たちが集団で刺させてくれていればいいですが70歳を超えての偉業ですからね、神業としかいいようがないですね。まして奥さんを亡くされた後も頑張ったのですが力尽きました。合掌。