古代以来、何人の死者が日本列島にいるのか?その死者の上に現代の私たちが生きている。

「葬式は、要らない」の著者・島田裕巳(宗教学)が「脱しきたりのススメ」(毎日新聞社)の最後で得意の葬式について(224p)、これまで日本列島で行われた膨大な葬儀の数を予測した。動物で葬儀を行うのは人間だけらしい。有名な象の墓場で象たちが鼻で亡き象を悼む映像が出るが、果たして悲しみなのかどうか彼らの感情はわからない。

1世紀の間に仮に5千万人が亡くなったとして、10世紀で5億人、20世紀で10億人。建国以来10億人くらいの人が土葬あるいは火葬され、あるいは流され、あるいは他の島で戦死。そうした死者の上に私たちの今日があると思うと妙な感情に筆者はとらわれる。この本には案外知られていない、戦後の死亡者の数の年度別推移も出ているから紹介しよう。昭和22年は死亡者113万8千人(乳幼児死亡率7.7%)、昭和23年90万台に減少、昭和26年80万人台、同27年は70万人台、昭和30年代は60万人台となり、以降、昭和50年代まで70万人台をキープ。

それが平成に入るころになると毎年増えてくる。平成15年から100万人台となり、平成19年代台から110万人、平成23年(東日本大震災発生)は125万人、以降、増え続けている。これから高齢化した人たちが鬼籍に入るから、死者は増え続け、子供は減り、人口全体はどんどん減ってくる。

話かわって、東日本と西日本の火葬場で、焼けた骨の扱いについて違いがあると島田さんは述べている。東日本は焼いた骨はすべて骨壺へ入れて、それを納骨堂やお墓に入れる。しかし、西日本は喉仏と頭蓋骨は必須ながら、すべてを骨壺に入れる習慣はなくて、廃棄する。東日本の骨壺の高さの平均が30センチ、西日本は12センチだというが本当だろうか?考えてみると、私の近くに東日本と西日本のカップルは少ない。東日本同士が多いから葬儀といっても自分の両親の焼き場での骨壺、妻の両親の骨壺は全部収納した。骨に固執する東日本、そんなに固執しない西日本。

読者に西日本の人がいたら教えてほしい。こういう葬儀のしきたりは歴史が古いので、筆者としてはぜひと知りたいのである。さらに昔は余った骨の入札があって、農家へカルシウムとして売っていたという話も残っているが、さもありなんである。土壌に貢献する生き方・死に方である。自然葬もポピュラーになってきて、筆者もはじめは樹木葬を望んでいたが、隣町で畑に撒いて近所の農家から訴えられた新聞記事があって、業者もテキトーな会社が多いとトラブルのもと。

そこで筆者の住む町で実施している集団で入る墓があって10万円以下で済ませる。ここにしようと思う。それも葬儀せず直送で焼き場に運んでもらうことにしている。すべて終わってからお知らせするということにしている。知らせるのは子供たちだけ。十分、親として、社会人としてやるだけのことはやったし、財産がないのが心残りだが、許してくれると思う。なんだか遺書のようなブログになってしまった。まだしばらく生きるはずなのでご心配なく.

安藤忠雄作  頭大仏
  1. 北陸は関西圏に近いのか?昔は地方によっては埋葬が主流の様でしたが、私の田舎では火葬場がありました。そこも遊び場の一部で肝試しをしました。火の玉が出ると子供心に信じていました。しかし下層の後は骨を拾いますが僅かでしたね。極端ですが骨壺も大きめの寿司屋の湯呑くらいの蓋つきの陶器で3個に分けて骨を入れていました。一つは宗派の寺の納骨堂で永代供養用に。もう一つは浄土真宗の京都の本山へ。そしてもう一つは自家の墓に入れます。墓の後ろから納骨しますが、入口も狭いですから大きな骨壺では入りませんからこのサイズになったのでしょう。映像などで大きな骨壺を抱えているのを見かけますが、あれほどのサイズなら墓に入れるにも相当な大きな墓とスペースが必要でしょうね。

    • どうしてひがし日本の骨拾いが、全身全部、西日本が下半身半分を捨てる習慣になったのか調べると面白い史実が出てきそうですね。九州は藩だらけで戦いが多くて死者の骨集めに時間を取りたくなかったかもしれません。東日本は争いが少なくて安定した国土なのでゆっくり全身の骨を骨壺に入れていたのかもしれません。私の予想ですが、博多から日豊線に乗ると、小高い山々の連なりと●●藩ばかりで、土地も狭く湾曲した道路だらけで、敵兵が我が藩に侵入するのを防ぐために生きていたのではと車窓から風景を眺めながら思ってました。

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