平気で他人を洗脳する人々。
本人は善意で言っているつもりが、結果として相手を洗脳していることがとても多い。厳密に洗脳の定義をすると、生まれたときから親からの躾もそうだが、幼稚園や学校で、また企業で、影響力の強い友人とか、信仰や信念を人一倍強く持っていて、声が大きいとかいろいろである。
毎朝、社訓を唱和して一日を始める企業もある。唱和する社員も『仕方なく声を上げている』ケースが多いとは思うが、その言葉がどこかでいつか動き出す。言葉は言霊ともいい、繰り返すと心の中に入ってしまう。戦前の『教育勅語』もそうで、電通鬼の訓十訓(下記参照)かもしれない。
繰り返しの言語は必ず浸透するから、書き言葉ではなく、音声とともに入ること言葉の威力は太古の昔から、『洗脳する場合』大事なことなのである。幕末の寺子屋でも『素読』を重視していた。漢籍の素読や古事記などであった。しかし、これは普通は洗脳とは言われない。教育の一環であって、どこで洗脳と区別するのか筆者もときどきわからなくなる。
洗脳集団の特徴は筆者からみて、訓示が最高で10条くらい(これ以上では多過ぎて覚えられない)。筆者の勤めた会社も『私どもはお客様にとって云々』というフレーズを何度も読まされたが 、いまは1行も覚えていない。どこか小馬鹿にしながら口パクしていたのだと思う。しかし、経営者はどうして社員にそうした教えを垂れ流すのか。
職人の世界なら幸田露伴の『五重の塔』でがっちりした倒れない塔をつくる、無名の職人が全国各地で釘を使わず建てた塔も多い。そういう世界では親方の背中を見て、失敗を糧として物づくりに励んできた。『言葉』が中心の抽象的な仕事が都会で増えるにしたがって、また社員数が増えて全体をまとめる必要が生じて最低限の決め事を作ったのだろう。
しかし、ことは企業だけではなくて新興宗教は『自分の悩みの答えを性急に求める人々』を口を大きく開けて待っているから要注意だ。財産をすべて失うケースも多い。洗脳が財産すべて没収に通じる、教祖の覆面ライターのよる本を買わされたり、全集本や高い仏壇も購入したり、下手したら日常の衣服を捨てて道場着に着替えるオームのケースもある。金の使い方や被服にまで洗脳する。
しかも、どちらも『洗脳する』『洗脳される』という意識が外から見ていて無くなっている。言い方はしかし『断定的』で、ここに『洗脳』の深いところがある。洗脳者は異様な自信家で迷いなく断定的に喋る。あなたの身近にいたら気をつけたい。
電通 鬼の十訓
アドマン。
創業109年目で会社が倒産した時に残った物の中に会社の看板と社是の額とTVなどがありました。端から見て値打ちの無いものばかりでしたが、女性職員がTVを欲しいと言うので償却済の古いTVをあげました。当時PCは大袈裟で機能も大したものでは無く誰も欲しがりませんでした。残りの看板も貰い手は有りませんでした。社是の額ですが、創業者の魂のようなものですからそこいらに捨てる訳にも行かず、当時の支店責任者の私が引き取りました。しかしその後は自宅の手の届かない所に仕舞った記憶は有りますが、ずっと見ていません。その内不用品として処分しなければならないでしょう。この額は朝礼時に全員で唱和したものです。が、大正初期に作られたので、漢字も古く、正しく読める人も少なかったですね。第一に、当時の支店長が読み間違う位ですから。当時の心に残ったのは唱和の前に先に詠む上司の間違う箇所が楽しみなくらいでしたね。私達はそれを知って居ても正そうとはせず極力小さな声でそれとなく分からないように気遣って濁して唱和していた訳です。一世紀以上も前の社是は時代にそぐわず、既に意味が無くなっていたようです。電通の十訓も何通りか有るようですが、今でも機能しているのでしょうかね?。
seto
読まなくても家訓のように応接間に電通うならば置いてあるとおもいますね。たくぎんが倒産したとき美術品を仕切ったのが北海道画廊でした。どんな作品を幾らで売ったのかはわかりませんんね。看板はレトロな看板を売ってる骨董屋さんありました。大塚製薬ボンカレー、大村崑の看板など考えてみると大阪本社の企業が多いです。食品や薬は大阪発多いです。日清もね。ロイズも広告は野立て看板から始まりました。上野も看板だらけでした。アジアはどの都市も看板とネオンサインでごちゃごxちやしてます。アジアの大都市に日本の広告会社が進出しているのでしょうか?
坊主の孫。
過去に勤務していた会社で、中堅社員を全国から集めて大阪の有る研修センターに集めて一泊して社員研修会がありました。講師は有名商社社員でした。その際、叩き込まれた事は、何か頼まれたら必ず返す言葉は『はい!喜んで!』でした。嬉しくも無い頼まれ事でも、いくら上司でもちょっと素直に言えない言葉でしたが、長い時間の中で洗脳されたのか?平気で言う人達が出始めたものです。ふざけてノリで言っている可能性もありましたが洗脳と言うのは同じ環境の集団の中で教育されれば可能かも知れません。考えて見れば、全てとは言えませんが、教育そのものも一種の洗脳めいたものかも知れませんね。同じ環境の教室や講堂の中で講師が教える姿と、それを習う生徒や学生は、それぞれ専門分野とは言えど、新興宗教の講話にも似ていますね。
seto
20歳を過ぎたら、義務教育で万んだことを忘れる脳のレッスンを私はしていました。偏差値教育が始まったので、とにかくどうでもいい知識を詰め込む毎日でした。この世代、私の兄を含めて冷たい人種になっている傾向があります。まずは、自分の成績や偏差値を上げる習慣を中学から、されていて、そのために「他人を落とす、他人の成績を下げる」ことが、相対的に自分が浮上することでもあるので、そういう意地悪な生き方をいつのまにか洗脳されてきた世代で、前に勤めていた会社で昭和22年から24年生まれの8人を思い起こすと、全員、ひどいエゴの塊の人でした。教育は洗脳ノシステムで、大人になってもそれが取れない残酷さがあります。