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手塚治虫「未来へのことば」(こう書房)から。手塚プロダクションの松谷社長が、日々接する、手塚治虫さんの折々の言葉を10章に分けて、簡明に記した本の一説だ。「第9章、生死、男女の、謎に向かう」に書かれてある。

全文は「ライオンに襲われたガゼルもコヨーテに咬みつかれたカモシカも痛そうな顔をしない。動物っていうのは、案外、死っていうものを深刻に考えてないと思う」。アフリカのサバンナのライオンやコヨーテのハンティング映像を見るが、”痛いわ!止めて”と叫ぶガゼルやカモシカの声や表情はない、見ていて諦念の顔を見る気がする。

女性観も面白い。「ボクは女を男が住んでいた地球へ侵入してきた宇宙人の子孫だろうと思っている。犬にサルの気持ちがわからんように、男に女の心なんて」女性から見たら、逆も真で「女の住んでいた楽園に侵入してきた宇宙人の子孫が男」ということになって、平行線だ。

医師でもあった手塚治虫は「医者というものは 患者を治しても 結局いつかは その患者は 死んでいってしまう  という 一種の自己矛盾みたいなものに 悩んでいるわけです」。「苦しみに苦しんでいた(ガン)患者が死んだとたんにその苦しみぬいている苦悶の表情がふわっと消えた。非常に美しい顔をしていた。それを見て、私、人間の死ってのは人が考えているほど苦しいものではないな、などと思った」。人間も動物の一種と思えばそうなるね。

手塚治虫の治虫って本名ですか?といういう質問には「いや、ペンネームです。・・・カブト虫の一種に(オサムシ)というのがある。その虫がね、首が長く、胴が長いのでちょうどぼくみたいなんです。それで、(オサムシ)としたわけです。あっはっはっ」

なかでも手塚治虫が、大事に大事にしたのが子どもたちだ。第3章がそれだ。「私はあと一生 子どもたちのためにすごして 悔いはない またその覚悟です」さらに普遍的に「子どもの求める本質的なものは 時代を超越して常に同じだ と思います。それは 未知への探求心と 得たものに対する驚異です」「学校の先生は ともかく漫画を描けるようになりなさい 漫画を描きながら授業をやれば 子供たちが振り向いてくれます」

胃がんで入院中の最後の言葉「頼むから 仕事をさせてくれ」日記の最後のページには「きょうすばらしいアイディアを思いついた!トイレのピエタというのはどうだろう 癌(がん)の宣告を受けた患者が 何一つやれないままに 死んでいくのはばかげていると 入院室のトイレに 天井画を描き出すのだ」

  1. 手塚先生は我々の少年時代の神様のような存在でしたね。鉄腕アトムに育てらえたようなものです。あの頃は原子力がどんなものかは正しく理解できませんでしたが、アメリカの原爆で敗戦した当時の日本には珍しく請け入れられたマンガでしたね。原子力の平和利用のお手本のロボットのアトムは勇敢で正義のシンボルでしたね。あの頃は子供たちの間でマンガは大モテで、月刊誌なども買って貰えませんでしたが、近所の床屋で読んだりしていました。そんな影響でか?当時の私の夢は、画家か漫画家でしたが、結局は環境にも恵まれず、いずれにも成れませんでした。しかし当時は、スケッチ・ブックなど高級品でしたから農協が捨てる未使用の伝票の裏白部分にボールペンや鉛筆で毎日絵を描いていました。手塚先生の影響か?空想画が多かったですね。漫画家には成れませんでしたが、でも、最終的には広告の仕事に就けて何と?偶然にも?手塚治虫氏の漫画をアニメ化した会社に入社できたのでした。話を聞くと、先生を口説くのに相当の時間を費やし、やっと了解を得た最初のTVアニメだったらしいです。その後は次々とマンガもアニメ化され始めてTVアニメ時代になりましたね。今や日本のアニメは世界を席巻しあのMLBにも先日は、観客にワンピースの麦藁帽プレゼントなどもありましたね。その起源を辿れば、手塚先生たちの日本の漫画家の方々ですね。

    • 私はあんまり漫画は見ていませんから語れないのですが、テレビにも関心なくて、外でボールをけって遊んでばかりいました。兄が漫画が好きで読んでいて、それを借りてペラペラめくっていた程度です。妻が恵庭で本屋をしていて、すべての漫画や芸能週刊誌を読んでいたと言うから凄い。そして詳しい。毀滅の刃とか映画は見てきましたが、言われたから行く程度です。ワンピースは見たことありません。

  2. 藝術家など大家と呼ばれる人たちは変わった人が多いですね。そして何かを目指していますね。手塚治虫氏は医者でありながらマンガ家ですし、棟方志功氏などは『オラァ、ゴッホになる』とか祭囃子を唱えながら筆を走らせたり、岡本太郎氏は『芸術は爆発だ!』なんて叫んだり、赤塚不二雄氏はダックス・フンドを鰻犬とか?バカボン・パパとか、他にも大勢いらっしゃいますが、兎に角変わり者?ばかりですね。太古に遡ればまるで絵巻ものの進化が今の漫画で、それぞれジャンルは違えど芸術作品ですからね。現代版のマンガは余り知りませんが、今現在も若き作者は誕生しているのでしょうね。

    • 変わり者が世界を変えるのは本当ですね。私も子供時代から変わり者でしたが、全然、世界は変えられないです。変わり者のまんま、棺に入りますね。

  3. 医者手塚先生から見た人間の死は、なるべくしてなった当然の結果であって、それまでに覚悟しておくべきと言う事なのでしょうね。人間に比べて野生動物たちのほうが、厳しい弱肉強食の世界で喰うか喰われるかが現実と、初めから受け止めて生きているのでしょう。一方、人間には病魔と言う見えない敵が存在して、それらに襲われれば、時間差はあっても、いつかその時は来るべくして来ると言う覚悟が大事と言う事なのでしょうね。今朝健康と思って居ても、明日の事は本人にさえ分からないので、誰もが覚悟を持って生きるべきだと言う事と、死を恐れず生きよと言う教えなのでしょうね。

    • 死は怖くないと悟るまで時間がかかると思います。人間から見て弱肉強食に見えるだけで、動物の世界はそのままですね。昨年からきょうまで沢山の身近な死を体験してますから、いまも難病やがん末期で苦しむ親族もいるのでつらいですが、励ましのメールで元気づけるしかないですね。いずれ私の番が目の前にあるだけです。70歳を超えるまで、こういう心境になったことないですね。10代から死を考えて、ようやくこの年齢までになりました。ある年齢にならないとわからないことたくさんあります。「欲しいものはない」「死が目前にある」「ひとりになっても生きられる工夫」「地域社会の人と仲良くする」、そんなことを考えてます。

  4. 手塚治虫氏のエピソードは、まさに“漫画の神様”と呼ばれるにふさわしい逸話に満ちていますね。手塚治虫氏の仰天エピソード
    としては<締め切り逃亡伝説>原稿の締め切りが迫ると、なんと九州まで逃げたことがあるそうです。編集者は「手塚番」として常に彼を追いかけていたそうです。<阿蘇山で遺書を口述>『火の鳥』の取材で冬の阿蘇山に登った際、吹雪に巻き込まれ「もうダメだ」と遺書を口述したという逸話も。無事帰還した後、この体験が作品に活かされたそうですからタダ者ではありませんね。『ブラック・ジャック』の連載時には、常に3〜4本のストーリー案を用意し、編集者に選ばせていたとのこと。没になった話は数百本にのぼるとか。<早く辞めてください発言>アシスタントに「早く辞めてください」と言ったのは、早く独り立ちしてプロになってほしいという激励の意味でした。虫プロからは多くの漫画家が巣立ちました。<海賊版への“神対応”>中国で発見された『鉄腕アトム』の海賊版に激怒した理由は、著作権侵害ではなく「絵がひどい」から。なんと自ら描き直した原稿を無償で送ったという伝説も。『鉄腕アトム』は日本初の本格的な30分枠の連続テレビアニメです。1963年1月1日にフジテレビで放送が始まり、全193話が制作されました。この作品が日本のアニメ文化の礎を築いたとされています。アメリカでは日本よりも早くTVアニメは既に始まっており、放送されていたそうです。たとえば、『クルッチ・カーゴ(Clutch Cargo)』は1959年に放送されており、さらに『ザ・フリントストーンズ(The Flintstones)』は1960年にスタートしています。これらはすでに30分枠の連続アニメとして確立されていました。

    • 詳しいですね、逃げるエピソードが秀逸ですね。締め切りに逃げる、追いかける、いい話です。自宅の書斎にマンガたくさんあります。子供たちが読んでいたマンガですが、全然、私は読みません。紫電改のタカくらいですかね。人間交差点とか。私が漫画苦手なのは「絵」「文字」を両方、瞬間的に読めないんです。字は字、絵は絵なんです。受け身のテレビは時間がもったいないです。ドkィユメンタリーなら引き込まれますが、めったに見たいTVないでうsね。

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