「増えすぎたものは価値が急激に低下する」。
経済学の原則らしい。瀧本哲史著「君に友だちはいらない」(講談社113p)。図書館で、筆者の持っていた観念が「叩きつけられた」ような本の題名に惹かれて読んでいる。「試練を通じてつながった仲間」には価値があるが、最近のSNSで、あまりにも簡単に人とつながれるようになった結果、一つ一つのつながりの価値が低下している。
むしろつながりが余りにも豊富になってしまった結果、より価値のある仲間を見つけ出せる人とそうでない人との「仲間格差」が、成果の格差に直結すると書かれてある。仕事をするにしてもいまは「チーム」で仕事をするから、メンバー選定を各部から一人とか年齢構成や男女比などより、この人が「何ができるか」「この人はこのチームに必要か」という視点で「チームつくり」をすることで、高い目標へ進める。(その成功の保証があるわけではないが)。
その始まりも、「秘密結社的」な仲間づくりが勧められている。映画「7人の侍」も黒澤明・橋本忍・小国英雄3人のシナリオチームの成果だ。作品をより面白くするために、3人の脚本家がヨーイ・ドンで同じシーンを書き始めて、そして誰のシナリオが面白いか検討会をして、それを積み上げていった作品だ。外から見たら、この3人の仲間は「秘密結社的」に見える。そういう仲間は10代や20代前半で出会う仲間が多いことも実例とともにこの本で語られている。
話変わって、ブログの世界も膨大な数になる、私を含めて。「増えすぎたものは価値が急激に低下する」が経済原則だとしたら、ブログも残るブログと解散するブログがある。ツイッターも「誰をフォローしているか」でその人の思想や知的レベルをかなりの精度で類推できる。なので「痛い人物」が含まれていたら、当人も「痛い人物」と判断される可能性が高い。インフレ化する友人知人には十分、注意を払うことを瀧本さんは言っていた。「ビッグ・データ」で分析されている。(8月19日、ネット広告狂騒曲 参照願います)
私は現役のころ(2000年)地デジテレビに対応した「デジタルコンテンツ事業部」の責任者になった。新社長の思いつきでスタートしたが、結果は「飲み会」と「説教垂れ流しの会」になって、仲良しクラブに変貌。2年経過して、1円も稼ぐことができなかった。全員が兼務での従事で、テンションの低さには参った。dボタンを利用して儲けられる事業を開発できないかアイディアを検討するセクションであったが、いまのテレビを見ても、ここを使って利益を生み出してるコンテンツがない。放送局は、天気やニュース、占いや試写会のお知らせ、日ハム試合状況などに使われている。面白かったのは、文字ニュースに日産の宣伝を入れた場合、放映している番組の提供がトヨタであったら、それは放送局として受けるわけにはいかないという話。業界によくある話だ。車の広告の横にアルコールの広告を載せるのはタブーであるように。


アドマン。
仲間には恵まれないですね。一匹狼でも無いですが、若い時にはバンド仲間、社会に出てからは同僚などは出来ましたが、その後は分かれたまま状態ですね。どちらかと言えば、仲間づくりが下手なのか?自ら嫌っているのか?元々協調性に欠けているのか?分かりませんが、同じ趣味や活動を共有して居ない証拠かも知れませんね。言い換えれば利己主義とも言えるのかも知れません。気の合う仲間が居ればそれはそれで大歓迎ですが、いずれにしても高齢になるに従って少なくなるモノばかりですね。仲間・友達じまいでも有りませんが、最近では自宅ガレージ内の無駄な棚を壊して木材や不要なものを駒岡清掃工場の破砕場に2度ばかり持ち込んだりしています。受付でクルマの重量を計測し帰りにも測り、差額で1回1200円程でしたね。お蔭でガレージも本来のクルマが入れるくらい広くスッキリしましたが、実はこれから活躍する除雪機の格納庫にしました。庭は虫のつく桜の木を切って株に電気ドリルで無数の穴を開けました。庭じまいですね。墓じまいなども世間では流行っているようですが墓守する人が居ないのでしょうね。札幌市では霊園の管理費を契約時にのみだったものを今後は毎年徴収に変更したようです。これも墓じまいの影響でしょうね。世の中全てお金お金ですね。益々不景気風が吹くばかりで今年も残りわずかになりましたね。
seto
アドマンさんの現在の心境が読めるコメントでした。浮遊する友人たちはいますが、こいつはという友人は1年に2回くらい母を訪ねてくるやつとか、新聞社数名、中学のクラスメート2名くらいですよ。里塚はことしから毎年管理費を集めるので、知人が10年分納めたいとといってもダメらしくて(子供に負担をかけたくない)面倒くさいとと愚痴ってました。アドマンさんの自宅ガレージ大活躍の冬がきますが、除雪はキツイ仕事。桜の木の株に穴を開けるのはなぜですか?恵庭も自分で家具や不要な木材を捨てる場所があり、車の重量を駒の里と同じように入るときと出るとき計測、差額を支払ってました。しかし、まだまだ捨てるもの多いです。生きるためだったら、そんなに必要なものは実はないかもしれません、厳密に考えると。
坊主の孫。
言い換えれば、仲間や友達が少ないと言う事は、裏を返せば中身が濃いと言えるかも知れませんね。知らず知らずのうちに自ら友達や仲間を選択しているとも言えるかも知れませんが、友達や仲間とワイワイガヤガヤするのは若い頃で、それぞれの事情などで次第に集まらなくなり、その内に周囲の環境変化に伴い、趣味や考え方にも変化が起こるべくして起き、それぞれ別の世界に生きる事で疎遠にもなり、それぞれの暮らし方次第ですが疎遠にならざるを得ない結果、友達や仲間意識も薄れてしまうのでしょう。しかし、そんな中でも一人でも数人でも仲間や友達と言える人が身近にいれば、そんな素晴らしい事は有りませんし、それこそが本物の仲間であり友達だとも言えるでしょうね。そんな仲間や友達は大切にしたいですね。だからと言って時には意見の食い違いやイザコザも有るかも知れませんが、別人格である以上当然な事ですし、お互いの許容範囲である事も理解し合いたいですね。
seto
中身が濃い人はそんなにたくさん友人知人をつくりません。相手も濃い人なら友人になるでしょうね。嫌いなのに無理に好きになることもないし、友人から自分が切られた時はそれはそのとき。身近な人が次々亡くなってるので、生きてるだけでめっけものです。その程度の人生観で十分だと思います。友人は古典や本の中に探すのがいいです。言葉を覚えるのは大変ですが。図書館の中にたくさん,未知の友人たちが私を待っています。
昔の少年。
一度会えばお友達・・・と言う極端な人達も沢山居ますが、たった一度会っただけで普通はお友達には成れませんね。では何回?と?そんな答えは有りませんが、一度で意気投合なんて話も聞きますからね。恋愛などでは一目惚れなんて事もありますからね。
しかし、自分が抱く願望と一致したと言う事でしょうから、そんな人物像を日頃から探していたからこそ一度の出会いが極端ですが生涯の友とさえなるのでしょう。人は誰もが友達や恋人や連れ合いへの願望が有って、絶えずその一致点を探しているのかも知れませんね。どんなに高齢になっても、そんな人と逢えれば最高の幸せですね。歳だからなんて諦めるのはいけませんね。
seto
心の友は一人で十分かも。かのソクラテスは弟子のプラトンとクリトンくらいですからね。そんなにできるものではありません。特に男はアテネ時代でもそうですが、嫉妬の塊で、自分より物を知っている、どうも自分の意見に被せてくる、私より賢いと思ってる人を次々ギャフフンと言わせるソクラテスを、若い男たちを迷わす輩だといって、死刑にまでする市民、詭弁者が多かったです。人口3万人のアテネ。古代日本でも中国でも私の町内会でも同じようなことがきっと起きてますね。中途半端な知識人が増えすぎて、彼らの価値が急激に低下しているのが現代です。特徴は「教えようとする悪弊」です。その人自身の人生を賭けない日本語ばかりですね。昨日、読んだ渡辺淳一の本に「男には常に語りたい欲求がある」(これだけ違う男と女)。たえず精子(言葉)を何億と放出する男という性からでしょうね。一方的にしゃべり続ける媒体としてユーチュブは最適です。凄いたとえですね、自分でもびっくり。