加藤周一に会いに行った
2月4日(土)に「加藤周一に会いに行こう」という会へ出てみた。憲法九条の会の代表小森陽一さんとNHKの元ディレクターで「加藤周一 幽霊と語る」を製作した桜井均さんの二人の対談。小森さんが加藤周一の取材時のエピソードを桜井さんから引き出すという体裁であった。
会場は超満員で、女性が6割で60歳以上が多数を占めた。青春時代を代表作「羊の歌」などで彼の言葉に感銘を受けたであろう人々だと思う。現代日本で、政治・経済・社会・文化・外交・歴史を全体として俯瞰して書ける知識人がいなくなって久しい。同世代の証券会社の読書家と話しても、専門性が強く深くなりすぎて総合的な知識人が出にくいという結論になった。
この事件や現象に関して、リベラルな立場から分析や警告を書く人が、あの時代、「日本の思想」を書いた丸山昌男さんやペシミストでフランス文学者の渡辺一夫、物理学者の湯川秀樹、朝永振一郎、天声人語を書いていた深代惇郎、エピキュリアン林達夫、それに鶴見俊輔、博学の国際人加藤周一がキラ星のごとくいた。言論界をリードしていた。自民党政治ではあったが、自民党内は右から左まで画一的ではなくて多彩であった。党内に自由や寛容さがあった時代である。
私も少しでも彼らに近づこうと読書したものである。もちろん吉本隆明も平行して読み、これにサルトルの実存哲学やカミュのレジスタント文学、レヴィーストロースの「悲しき南回帰線」を初めとする構造主義の波が押し寄せてきて、ミシェル・フーコーの「言葉と物」の難解な日本語訳をめくった。
別にこれは私だけでなくて、同世代の学生に共通の傾向ではあった。そういう言論風土の中に青春時代を送っていた人々が「加藤周一に会いに行く」に参加していたと思う。面映いような会であった。彼の本で「芸術論集」だと思うが、アテネの博物館の観光客がほとんど行かない2階のエーゲ海から引き揚げられた壷が年代順に並べられていて、それまでタコや海の魚の絵柄に突然、人間が描かれるようになった。紀元前6世紀からだと。それはギリシャ哲学者が出てくる時期と重なるという指摘であった。人間が人間の内面を見るようになった(対象化する)のである。
映画「加藤周一 幽霊に会いに行く」は学徒出陣で自分より才能もあり、反戦の文章を書いていた親友を失う。その彼に会いに行くという設定だ。彼ら死者の代弁も加藤周一はずっと言論で戦後してきたのである。生き残った者のコンプレックスでもあると桜井さんは説明をしていた。だから戦争の兆候への怒りや指摘は半端ではなかった。アンパンマンの作者やなせたかしも、ゲゲゲの鬼太郎の水木しげるも「野火」を書いた大岡昇平もそうだ。そう考えると、戦争を知る世代が次々と物故して、彼らの残した作品から学んでいかないと社会は風化してしまう気がするのである。
加藤周一には、もうひとり戦地から帰国した友人がいた。しかし、彼は一切「戦争について語ろうとしない。沈黙のままであった」。言葉を失わせる何かがあったのだろう。私の父に高校2年の自由研究で「父親から戦争体験を聞く」というテーマが与えられてそのことを父に言うと顔を赤くして「何がわかるか!」と怒鳴られた。母に聞くと、「自分が逃げるために子供を捨ててきた大人をたくさん見たのだ」と。妻の父親が中国戦線から帰国したが、夜中に突然大声で叫ぶことがあった。戦争は一生、それに参加した人間の心を変えてしまう。たとえ生き延びても。



