この文章は12月23日のブログで紹介したもの。最初の1行目が私は好きだ。

 

人間一日だけ幸せになりたければ、床屋に行くといい。

一週間幸せになりたければ、結婚するといい。

一年間幸せになりたければ、家を建てるといい。

一生幸せでいたければ、自分で正直であるといい。

今宵、幸せになりたかったら、談志を聴くがいい。クアーッ!「立川談志 まくらクレクション290p)

立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわ・うんこくさいいえもと・かってこじ)。この法名ならテレビで放映されないだろう、新聞にも掲載されないだろうという読みが談志さんにあったとも言われている。落語はひとりで最低2人は演じ分けないといけない。そこのどこに自分を入れ込むのか?下手したら自分が無くなってしまう危険を孕んでいる芸だ。

ある瞬間、狂気に近い精神状態になるときも見ていてある。天才落語家桂枝雀が縊死したときもそれを感じた。落語が好きなのは、武士が出てこない。隠居や八さん、熊さん、職人、主人公のおかみさん、魚屋、坊さんも出てくるかな?とにかく武士が出ないのがいい。武士が出ると説教や刀振り回し、「これ下々の者!」とか落語の世界は台無しになる。町民(長屋)文化を壊してしまう。

表題に戻れば、筆者の持論は、幸せなんて瞬間芸みたいなもので、あっという間に終わります。だから不幸が来ると言う意味でもなくて、平板な日常が続くと言うことです。平板な日常でも維持するだけでも大変。この日常を非日常で覆い尽くすと楽しいけれど、後でとんでもないツケが舞い込むので注意です。何人もいました。

長く生きてきた人はわかると思うが、自分の持病や事故や毎日の仕事の悩み、配偶者の病気、子供の進学・就職・引きこもり・転職騒動・結婚・孫の誕生、そうこうするうちに両親の認知症や病死、財産分け騒動。平板な日常でも自分に関わることは山ほどある。

しかし、平凡な人生でもいいといっても平凡にならず。サラリーマンなら人事異動や上司の配置転換、下手したら倒産や失業に遭遇することだってある。何度も書いたけど一寸先は闇。闇の中へ手探りで歩んで行くことしかできない。ひとりでね。

明日のブログは「繋がりながら孤立したい」「孤立しつつ繋がりたい」です。

  1. 僕のようにジグザグ人生路をさらに道草食って歩いて来た?いや~未だ歩いて居る?者にとっては、人を羨む暇も無く、自分が生きる事だけでも精いっぱい。幸せは一瞬!そう感じた時が幸せで、困る事の方が遥かに多い。困った時の神頼みで迷路で迷ったら神宮で暫しの瞑想をして、また道草食いながら、エリートコースと言われる人たちの数倍も数十倍もの無駄な事をしながら迷走する。実在する人にご迷惑を掛ける前に神仏に打ち明け、さらけ出して、自力で這い上がれれば良しとしている。そんな時の「お御籤」は厳しかったり、優しかったり、たった100円か200円でアドバイスや、今後のヒントが見つかったりする事もあるから不思議だ。神道の友人が居て、一緒に参拝すると必ず「祝詞」をあげる。短い時と、長いバージョンもあって、何度聞いてもなかなか覚えられない。僕の場合、小学校で給食時間に箸を親指と人差し指の間に挟んで合掌しながら「箸トラバ、天土御代の御めぐみ~云々。頂きます」と、食べ物とその作り手や一日に感謝していただいていた事がある。神仏信仰以前に恵みに感謝する事は当たり前に正しい事なのだろうが、日常忘れがちで、つい食物はスーパーの大型店で栽培され、販売されているように勘違いしてしまっている。物やそれに関わっている人を思い浮かべて感謝する事も忘れてはいけない。今では家に小さな仏壇しか無いが、「初詣」や「どんど焼き」など、昨日も神宮前の通りには駐車場に入るクルマの長蛇の列があった。最近は神社のCMも有るには有るが、告知もしないのにこれだけの人々が集まるなんて、俗っぽいかも知れないが、イベントを開催する側の僕としては羨ましい。外国の宗教が絡んだ一部の血生臭さに比べれば、優柔不断で節操が無いと言われるかも知れないが、このように、近すぎず、遠すぎずの距離で神仏に接するのは僕たち日本人だけなのだろうか。初詣では、これまで七つの御願いをしていたが、今年は欲張らずに自分と周囲の人達の「無病息災」をお願いした。

  2. 話は逸れて、道草を食うな!って言われそうですが、本当に「道草」って食った事有りますか?僕は道草と言うより野原の「スイモン」と言う酸っぱい草を食べていました。草だけではありません。近所の小学校のグランドの端に有る二宮尊徳の石像の周りに植えられたツツジの花も片っ端から食べました。山では山栗は勿論、アケビやイタドリや山芋の弦にあるニカゴや大抵の木の実も適当に食べていました。小学校ではポケットにいつも大きな生栗やクルミが入っていました。全ておやつ代わりです。甘柿は子供は取り放題。渋柿は干し柿用に取った後に残った熟柿を手製のパチンコ(鳥を狙い撃ち用)で狙い打ちして手で受けて食べました。スモモもナシも、グミもナツメも野イチゴも田舎には道草以外にも沢山の食べ物がありました。もちろん野菜やお米はありましたが、自然からの恵みも豊富でした。谷水も美味しかった。それでお腹を壊した事はありませんでした。飲料水さえも今ではスーパーですからね。田舎の子供たちも今ではスーパーで買ったものを食べて「道草」食わずにエリート・コースですか?

  3. 二行目、三行目はシニカルですねえ。私は、広告制作で
    住宅は孫子の代まで、結婚に至っては永遠の幸せとかなんとか
    さんざん書いてきました。真に受けたわけじゃないけど、
    もうちょっと長いかと思ってましたよ。
    だからみんなお上から勲章もらって、せめて死ぬまでハッピーで
    いようと思うんですかね。

    oldbadboy.com

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