一神教的な思考回路とは?
10代から20代の初めに「新約聖書」を勉強の意味で読んでいた。日本聖書協会が責任編集した書だ。次々と奇跡(当時のライ病人を直したり、足の萎えた人が歩けるようにしたり、パンを増やしたり)を起こすイエスの物語を唖然の気持ちで読んでいた。こんなことってあるのかね・・と冷ややかに読んでいた。水の上を歩くなんて信じられない。
特に最後のヨハネの黙示録には参った。なんで死者が蘇るの?なんで次々ラッパが吹かれて最後の審判があるの?クラシックを聴けば「レクイエム」の多いこと。石の教会で音楽を聴けば、音の響きにみんな酔ってしまうよね・・とも感じていた。宗教絵画から彫刻から音楽まで宗教漬けになったら、私なんか発狂してしまいそうだ。どうして教会の天井や壁に絵を書かないといけないの?フレスコ画だよね。
あらゆる文化に布教の精神や奇跡の物語を幼い時から吹き込む。イタリヤへ旅行に行った知人が「もう飽きた、どこへ行っても教会や彫刻や絵ばかりで」。好きな人にはたまらない旅が彼には辟易する旅だった。自ら油絵を描く人なのに。でも私は、たぶんヨーロッパへ行ったことがないけれど、彼に近い感覚があるような気もする。
日常生活の環境がキリスト教に囲まれては血肉化するのはあたりまえだが、ここから脱出を試みた画家もいた。ゴーギャンだ。そこで、キリスト教に限らず、一神教を信仰する人たちの思考回路はどうなっているのだろうかと興味を持った。神を信ずることは思考の停止につながると思ってるので、もぞもぞ考えたり、躊躇したり、疑ったり、女々しくなったり、余計なためらいが無くなって気持ちがずいぶん軽くなるようで、羨ましい気もするが、筆者は入れない。
その根本に、学生時代に宗教戦争時代のヨーロッパを多少勉強したことも影響している。宗教の持つ規範力・強制力・集団性・麻薬性・そして信じない者への残虐性、侮蔑的な振舞い。その宗教を実は信奉しない権力者が利用した歴史を思うと、むしろバラバラな方が人畜無害になる気がするのだ。科学理論の背景にキリスト教があると言われる。神は自然をランダムに作らない、必ずある規則性が背後にあって、それを追求する、遡求するとルール(法則)が見えてくる、発見できる。それが万有引力であったりすると。しかし、同じ神を信奉するイスラム教徒はなぜ化学や建築はあっても、自然科学思考、科学理論を生み出せなかったか?すでにキリスト教徒に先を越されて、入る余地がなかったからなのか?
どんな生きものにも等しく神は宿る、万物は流転する、最後の審判はないから今を丁寧に生きよう。金を求める宗教は警戒しよう。宗教は現代、最先端ビジネスだ。この点に留意すれば一神教的な思考から逃れられる。
イスラム教徒とユダヤ教徒・キリスト教徒の殺し合い、そこに経済的な損得があるにしろ、この憎悪の絶対量は半端ではない。愛があればあるほど憎悪が増える時代だ。家族や同志への愛や忠誠は同じ分量の憎悪を作り出す。歴史を学べばわかるはずなのに愚かしい。歴史から学びたくないのかもしれない。「それはもう古い」と言って「過去を繰り返している」。
昔、昔の少年
我が家の悪ガキ、小3の男児が悪さばかりして余りにも言う事を聞かない。ある日「そんな悪い事ばっかりしていると神様のバチが当たるよ!」と。「そんなの居る訳ないし~!」と、玄関を飛び出して間もなく、神のお使いのカラスが彼の髪に、たっぷりと「罰のフン」をかけて飛んで行った。これにはさすがの悪ガキも一瞬にして凍り付き、改めて神の存在を信じたらしく、その後も少し心を入れ替えているような気もする。僕も長年生きてはいるが実際に神の姿は絵本でしか見た事はなく、実在はしないにしても自分を戒めるためにも、自分の中に自分流の神を宿す事は良いかも知れないと思っている。すべては偶然だとしても「命拾い」を何度も経験したり大事に至らずここまで暮らしてこれたのも不思議と言えば不思議。一神教ではないが、無信仰の僕も時折「何かに守られている」ような気がする事もある。先日も「ロト」を買って「どうか大きく当たりますように」とお願いしたが、こんなお願いはなかなか聞いてくれない。自分の中の神は神でも「貧乏神様」なのかも知れない。
匿名
映画「十戒」で海が割れたのはトリックとしても、人間業ではどうしょうもない天変地異や解明が難しい宇宙の存在だって、偶然性の脅威などもコントロール不可能。これらを称して「神業」として恐れ崇め、それを誰かの仕業とすれば「神」以外に居ないだろうと、新興宗教などのマインド・コントロールには格好の材料となる。「信じる者は救われる」場合も稀にはあるかも知れないが、「信じる者は騙される」場合もある。信じる、信じないは個人の自由だが、いけないのはネズミ講のような、強引な押し着せや勧誘だろう。同じ考えの者同士が意気投合するのは自由だが、コントロールされない限り、人間はまったく同じ考えなど持ち合わせていないはずだ。戒律が厳しければ厳しいだけ賛同者は少なくなるはずが、集団は安住とばかりに大勢の組織となる理由は自ら置かれている立場での困り事を共有しながら解決したい願望からだろうか。「神」を名乗ったり、「天の声が聞こえる」とか、「神の使い」を名乗る「教祖」などの「神をも恐れぬ者」は、つまりは「神」の名を悪用しているに過ぎない、明らかにこの世のためにもならない、宗教からも逸脱した悪徳ビジネスの「悪人」たちだろう。いつかは何らかの形の「天罰」が下るだろうが、その時、彼らは「神の仕業」とは思わないだろう。