他人の手柄を自分の手柄に!「羅生門」
黒澤明の自伝の最後のページは「羅生門」という映画が、ベネチア映画祭でグランプリを受賞したニュースで終わる。
羅生門は「人間は、自分について、正直なことは言えない。虚飾なしには、自分について話せない。死んでも、そういう虚飾を捨てきれない人間の業の深さを描いている」。
羅生門の制作に関して、初めから社長自身この映画の制作に難色を示し、出来上がった作品についても全くわけがわからんと憤慨して,その制作を推進した重役やプロデューサーを左遷したにも係らず、羅生門がグランプリを受賞し、テレビで放映されたインタビューで社長は、「この作品を制作・推進したのはすべて自分である」と胸を張って話していた。さらに、これまで映画というものは、「太陽を背にして撮影するのが常識であったのに、この作品では初めてキャメラを太陽に向けて撮影させたのである、とまくし立てて、遂に最後まで私の名前(黒澤明)もキャメラマンの宮川君の名前も出さなかった。」(400p)。
黒澤明は、まさにこれこそ「羅生門」だと思ったと。人間の悲しい性(さが)を目のあたりにしたと。
私の狭い経験からも営業先の仕事でいい仕事を続け、売上も伸ばしているものの、そのスポンサーは辞めて行ったAさんの置き土産であったりするが、外から見ると彼がゼロから開拓したクライアントに見える。しかし、あたかも全部、自分の手柄のごとくに振舞ってる人が多かった。「〇〇さんのお蔭で」と正確に語る人は少ない。世の中はこういう事案が山のようにある。政治から経済から企業から。人間の呼吸している所にどこでもある。
自分が生まれてきたのは、自分の実力ではないごとく、人生も仕事も、自分の能力の占める割合は数%と思えば謙虚になれる。見栄の力、虚飾の誘惑、自分を綺麗に見せようとする心持ち、自分のことを自分で語るとき半分は作り事と思いたい。都合の悪い部分は省いている。人間ってそういうものだというテーマが羅生門。だから普遍性もあり、全世界で感動された映画になった。
昔、昔の少年
動物も人間も組織の中では強者が仕切るピラミッド形だ。弱者は強者に守られ、強者はそれらを護るリスクを背負っているがためにピラミッド全体を自分と思い、弱者は組織の歯車として従いながら恩恵を得る。強者はその力を誇示し、組織すべてを自分と思い込み美味しい手柄はほとんど独り占めする。弱者は残り物を少しもらえる図式だ。しかし動物と人間では力の意味は違う。動物は戦う強さ、護る強さだが、人間は資金力やコネクションや七光りだったりする。社会全体も同じで、例えばマスコミ各社を下支えするスポンサーや広告代理店があり、それを支える外注先プロダクションなど、実際に苦労しているが光が当たらない現場は、重い組織の基礎を支える重要な役割を担っている。組織内での新しい事業は、結果が出るまで批判されたり、左遷更迭されたり、減俸だったり、あるいは解雇だったり、外注先の出入り禁止だったり、トップの判断が下される。こんな組織に巻き込まれない為には中途半端に大きな企業に属さず、むしろこじんまりした判りやすい企業か、ストレスのない個人経営しかないのではないだろうか。人間関係の悪化は企業にとっても個人にとっても行く行くは障害になると思う。トップの成功美談など、その犠牲者からして見れば組織に対する反旗の材料にしかならない。内部告発で大組織が揺らぐ時代、頑丈な堤防も蟻の穴から決壊する事もアリ。
匿名
家庭の中では神的存在の「カミさん」が手柄を独り占めしている。少ないお金で家系を切り盛りしているのは私。ご飯を食べさせてあげているのは私。家族の健康に留意して気を配っているのも私のお蔭。家の中を綺麗に片づけて居るのは私で、とっ散らかして居るのは家族。終いには稼いで貢いでいる自分が養ってもらっているかのような錯覚に陥ってしまう。おまけに、あれこれ用事を言いつけられ、それらもこなさなければご機嫌麗しくなくなる。冷静になれば、お金を稼いでいる訳でもなく、ただ使っているだけなのに何故、稼いでいるこちらが卑屈にならなければならないのか?疑問だらけだ。これも組織なのか。不思議と何十年も君臨し続けるコツを「山のカミ」は心得ているようだ。若い時なら甘いご褒美もあったが、今では、まるで飼い主と、首輪をつけた犬みたいだ。仲の良い夫婦など、この世に本当にいるのだろうか?信じられない。こんな話をすればまた未婚の男性が増えるかも知れないので、此処では真逆な事を言うべきでしたね。真実?ばかり、きれい事ばかりでね。