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左フロイト、右ユング

このユングの言葉が、世界認識や自己認識に深く関わることは言うまでもない。昔、哲学の入り口に立ったとき、ユングやフロイトはどちらかというと文学で、どうして個人の深層心理や無意識が過去の歴史に通じるのかとか、時間の継時的な概念や事件や経済関係とどう関係するのかとか批判的に言われた。

太古の歴史に個人の心理を重ねる方法論に今でもアレルギーを覚える人は多い。「時代が違うだろう」とか「古臭い話だね」とか「精神分析手法でやられるとそれって学問じゃないよね」とばっさり切り捨てる人もいた。河合隼雄さんの努力でユングは人口に膾炙して、いまではフロイトより読まれているかもしれない。

私の好きな「日本昔はなし」(テレビ東京・日曜朝9時)は、テーマは日本昔話だけどこの種のストーリーは世界中探せばたくさんある、普遍的な人間心理を描いている。河合さんの生の声を聞きたくて、小樽市で毎年秋に開催している「日本ファンタジー大賞」授賞式に列席して、特別講演やシンポジウムを何度も聴きに行ったものである。河合隼雄さんが主賓なので、茂木健一郎・大江健三郎・養老孟司・中澤新一・谷川俊太郎・柳田邦男・立花隆・筒井康隆・森毅など河合隼雄さんを慕う・尊敬する面々が集まって楽しい時間を私も過ごした。日本の昔話が世界中で同系のお話がある。世界のお話が日本昔話にあるといってもいい。意識の底の底にあるものは民族を超えて共通だというのがユングの立場でわかりやすい。

ともかく表題の「思想の真の歴史は、学術書の中でなくて、一人ひとりの生きた精神組織の中にある」。これを敷衍すると、個人史からいえば、近年の話題で清原選手が「あのときのドラフトで桑田が早稲田へ進学すれば、俺は王さんからサインボールをもらい巨人入団が決まっていて、西武へ行くことはなかった。薬にはまることもなかった」(これも断定はできないが)ともいえる。

さらに、アフガニスタン空爆やイラク空爆でたくさんの市民が米英の戦闘機の爆撃で虐殺されて、その子供たちが西欧の文化やキリスト教へ復讐しているのかもしれないとも思えてくるときがある。被害者は加害者以上に残忍になるときがあるのである。同時に加害者は健忘症でもある。

国の歴史を考えても、幕末に日本はアメリカから開国を迫られていやいや開国した。その同じ手口を今度は日本は朝鮮へ1910年行って合併し、言語まで日本語を強制。それが今日の排日感情の背景にある。欧米への脅威から、日本も天皇を中心にして疑似一神教の体制を敷いて、真似をしたのである。自分よりその時点で弱い人(国)に対して。

フロイト学者岸田秀は「一神教は被害者意識の強い宗教」「復讐を繰り返す宗教」「世界史の中での特異なローカル現象」「嫉み深い宗教」「ヨーロッパもローマ帝国がキリスト教を国教にしなければもともとアルプスの向こうは多神教であったから、嫌々ながらクリスチャンにされた感情の深い所にその恨みが流れていて、その後のヨーロッパの生き方を決めた。ユダヤ人差別も強いローマヘ反抗できず、弱いユダヤへ向かっていったのでは?」と。自分より強いものへは向かわず、より弱い生け贄を求めて人間集団は動いていったと見る。

さらに「アメリカはヨーロッパーで虐められ(食べれなくなる極貧)で渡ってきたので、今度はさらに弱いインディアンを虐殺して土地と資源の泥棒していった」「アメリカが世界の警察として出しゃばる癖は(世界中の軍事費を足してもアメリカ一国の軍事費に満たない)、とにかく自分たちの価値観を押し付ける源泉は、国の成り立ち(イギリスに立ち向かう・独立を勝ち取るためにまとまる標語を欲する)にあり、付和雷同しやすい気質(付和雷同しないと強いイギリスへ勝てない)にもあるだろうと思う」。

だからモンロー主義(孤立主義・地域でまとまる)と拡張主義は矛盾しない。小さく圧縮してまとまると、拡大も早いし、攻撃性も強いのである。下手したら際限がない。

ひとりの人の精神組織の中に、たくさんの人、育てた親の価値観や教師のイデオロギーや影響を受けた人の言葉や行動が染み込んでいる。そこには階層や文化や民族や歴史も含まれる。日々、私たちは無意識にせよ、その価値観に左右されて自分の物語を創りながら生きている。

この項目はテーマを変えて何度でも出てきます。いまの世界の問題だと思うので

  1. 前々前々職の広告代理店に入社時に「日本むかしばなし」のTVアニメ化に携わっていたプロデューサ(役員)に会って少し話をしたが、当時の僕は「プロデューサ」になりたいなと素直に思ったものだ。社員でありながらTVの画面には毎回名前が出て羨ましかった。でも後々知ったが河内広範大先生のご機嫌を取りながらの苦労が見えて大変な仕事だと気づいた。子供の情操教育と言いながらつい自分も見ていた記憶がある。昨日は小1の女児を連れ、耳鼻科に行った時、待合室に「イソップ童話」の本があったので読み聞かせた。あらためて意外に辛辣な結末をさらりと言ってのける文脈は「日本むかしばなし」との違いを感じた。東洋系と欧米系の微妙な感覚や宗教や価値観などの違いがこんなところにも現れているのだろう。物語の作者がはっきりしていない名作もずいぶんあると思うが、昔話の歴史はいつから忘れられるようになったのだろうか。今の子供たちには、現実的なニュースや仮想ゲームや、SF映画意外は興味が湧かないのかもしれない。例えば「戦隊もの」と呼ばれるものも数人の善良な?若者たちが、一人の悪人や怪物を倒す事が多いが、いくら醜い相手と言えども「いじめ」、「差別:そのものを描いてしまってはいないか。作者たちの資質が問われる。こんなプロデューサにはなりたくないものだ。

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