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幕末の緒方洪庵(1810~1863)は天然痘を根絶するために奔走した。前に筆写は「ペストの歴史」を7回にわたって書いたが、日本で仏教の伝来に伴って大陸から来たのが天然痘だ。治療法もなく奈良に大仏を建立し神仏に頼るのが精いっぱいだった。

「人類の感染症の歴史」(加藤茂孝 丸善出版)に日本での天然痘との戦いの記録が書かれてあった。英国のジェンナーが種痘による治療法を完成したのが1796年、広東のイギリス商館を通じて1805年に早くも中国には伝わっていた。すぐに漢訳された。

これを日本で出版したのが1841年。約50年で種痘法が伝わるとは異例の早さだ、それほど深刻な病気であった証拠で、漢訳した人、その本を運んできた人、本に書かれたことを実験(治験)する人、被治験者に買って出る人(初めは囚人も多い)、そして効果を測定判断して普及に努める人。無名な人々の努力の成果の結晶が今日の天然痘撲滅にある。「井戸水を飲む人は、井戸を掘った人を忘れてはいけない」(周恩来が中国のことわざを引用して)「飲水思源」。

種痘対策は天然痘のワクチンをつくる痘苗(とうしょう)がないと作れない。天然痘にかかった人からカサブタや液体(痘漿)を採取して保存をして、それを次の人へ植え付けて運ばなければいけない(それで亡くなった人もいるかもしれない)。船便は長崎まで長い時間を要するので、冷蔵庫もなく、人間の体を種苗にしたのだ。

しかし、これより前にエトロフ島で拿捕された中川五郎治が送還されるときに、1812年ロシアから痘苗を持ち込み、蝦夷の松前藩と仙台藩で種痘を実施している記録があるし、1814年広島県の川尻浦久蔵が同じく難破漂流してロシアから種痘を持ち込んでいる。しかし、鎖国ゆえ痘苗は没収された。正式には西洋医(蘭方医)でシーボルトの弟子モーニケが持ってきたカサブタを自分の子供に摂取した楢林宋建(1802~1852)が最初で、ここから全国へ痘苗が伝播したという。楢林から痘苗を分けてもらった日野鼎哉(ていさい)は京都に除痘館を開き、日野から苗を分けてもらった笠原良作は福井に除痘館を。さらに江戸で6万人、蝦夷地で6400人のアイヌへ種痘を実施した桑田立斎(りゅうさい)もいる。

中でも一番活躍したのが、ブログの最初に書いた緒方洪庵だ。種痘をすれば牛になるという風評被害にめげず幕府からその効果を認められて、大阪から江戸に出て1862年西洋医学所の頭取になり人頭指揮を執るが翌年急死。1868年に医学校になる。これが後の東大医学部の前身だ。大阪の緒方洪庵の適塾は塾生636人。先ほど書いた笠原良作は、緒方洪庵へ痘苗を分けてあげた。種痘を「白神」と笠原は書いたが、白神(はくしん)はvaccineワクチンの音訳である。緒方洪庵も笠井良作も無料で種痘を行っている。特許も取らず、誰にでも公平に種痘を実施した。

さらに、天然痘撲滅に幕府や藩は保守的であったが、民間の豪商たちは積極的な援助を惜しまない。大阪の除痘館建設には両替商の大和屋喜兵衛が土地と建築費を提供、京都の除痘館建設には、東京の文具店鳩居堂熊谷直㤗(なおやす)が土地と資材を提供、自ら宣伝ビラを作り、子供集め用に和菓子を与えたりした。江戸の神田にあった種痘所が神田大火で燃えたとき、銚子のヤマサ醤油の濱口梧陵は500数十両を寄付して種痘所を再建させている。この時代の豪商たちの志が伝わってくる話だ

私の左肩下に小学校に入学するとき打たれた種痘の後が残っている。その傷跡にもこんな長い物語が隠れている。それこそ、周恩来の言う「井戸の水を飲む人は井戸を掘った人のことを忘れてはいけない」である。

同書20p~23p参照。

  1. いま、あらためて腕まくりをしたら種痘のあとが残っていた。小学校で打たれたものだ。当時は何もわからず皆が義務的にするのでとくらいに思っていたが、そんなに長い歴史の流れがあったとは知りませんでした。ともすれば忘れがちですが、医学は人の犠牲のうえに成り立っていると言う事を。

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