コーヒーブレーク(2回目)
先日、富士フィルムの画廊で開催の写真展を見てきた。北海道を代表するCMを中心にして有名人のポスター写真や生き物の瞬間ショットや自然風景、撮影者の略歴を載せている人、省いてる人様々だ。内輪の写真展ではないが、CMカメラ界のドンがいて彼を中心にワイワイ取り巻きがいて、じっくり写真を鑑賞するのに邪魔だった。
書道も絵画でもドン的な人の展蘭会はいつも内輪で固まってるように見えるのは私の偏見かもしれないが、これはカルチャーセンターの定例文化発表会でも同じように感じることだ。カメラ展は圧倒的に男が多いし、書道や人形作りの展示発表会は女性が多数だ。エレクトーンや花束持参で義理で駆けつけたバレーの発表会もそうだった。発表の場所を作らないと趣味の世界は崩壊するのかな?私のブログも考えてみれば、発表のスペースがあるから継続されてる。
現役を引いた男は特にカメラに凝る人が多い。一眼レフを使い、きょうも出かける被写体さがし。なぜだろうかと考えると、意外やそれは「自分を写さなくていいから楽」だということではないかと思い当たる。テレビ画面を見るように絶対他者を見る。プロのカメラマンになると土門拳の「筑豊の子どもたち」は見ていて涙が出てくる。モノクロもあるけど生きるリアリティや自分の幼年時代、少年時代が思い出されたり、被写体の少年たちへの土門さんの愛情が伝わり、彼等の目もキラキラしている。
SLの貨物が通過する場所にも住んでいた私は、夕張や産炭地から運ぶ列車から落ちた石炭を拾っては、自宅の貯炭箱へ運んでいた。そういえば新聞に折り込まれるチラシはセスナ機から撒かれてキラキラ赤や金色をして落ちてきた。我先に拾うと単なるお店のオープンチラシだったり、がっかりだったが、空から降る紙を拾えたのも車が走らず、のんびりした時代であったから。1枚幾らでチラシを撒いていたのか知りたいぐらいだ。そして、自宅へ持っていき母から「こんなチラシを拾ってきて!」とゴミ箱に捨てられる。
さらに、セスナ機から大きなスピーカーで街頭放送みたく喋っていた。テレビもない時代だから広告表現は直接的だ。空からちらし、音声、そしてアドバルーン。口コミが一番の宣伝媒体だ。豆腐を一丁買うのに1時間も母は帰ってこない。子供の話、育児の話、近所の人の話で大盛り上がり。テレビがなかった分、みんなお互いの顔を見ながら近況報告会をあちらこちらでしていた。知恵遅れの子供たちも一緒に同じ平面で暮らしていた。知らない人でも地域で生きる人たちは挨拶を欠かさない。超アナログの時代だったが、笑い声があちこちから聞こえてきた幸福な時代ではあった。お互い貧しかったが。
狼少年
ニコンF2一眼レフ2台、二眼レフ1台、マミヤプレス2台、ブロニカ1台、ライカ1台、その他9~10台のカメラに交換レンズ各種、プロ仕様の三脚や、現像機器、複写機器などをローンで買い込み、暗室代わりに地下室を占領していたが、あれほど熱中していたカメラもデジタル化ですっかり冷めてしまった。誰でも簡単に綺麗な写真を撮る事が出来るようになったからだ。あれだけの機材となると手入れが大変でお天気の良い時は虫干しが欠かせない。レンズ内部にカビが発生すれば大変な事になるからだ。デジタルのポケットサイズカメラを買って、しばらくした或る日曜日、突然!フイルム式カメラも機材も全て自分の周りから無くしたい衝動に駆られ、全てをクルマのトランクに積み込み、中古カメラ店に直行して売り払ってしまった。満載のクルマの機材を見て中古カメラ店のオヤジに一瞬疑われた様だったが?彼の計算は意外に早かったのには驚いた。その後はストックしていたフィルムも全て廃棄してしまった。ネットオークションにと言われたが、何故か一気に無くしてスッキリした事を思い出した。あの時貰った20数万円は全部家族にあげた。家庭を顧みず我が道を行く道楽者だった僕も初めて家族に感謝された記念日でもあった。
昔、昔の少年
何処に行っても大袈裟な長いレンズを装着した一眼レフカメラを首から下げた初老の男女と意外に若い女子が目につく。僕にはあんな大きなカメラはとっても買えない。本格的な機材なら数十万円もするシロモノだからだ。しかし手持ち撮影の人が多いのは何故だろう。あれだけのカメラなら大型三脚が必要だと思うし、動く被写体で速写を必要としても、せめて一脚くらいは欲しいところだ。羨ましくも思う一方で、そんな「にわかカメラマン」がうろうろ多いので、変に写し込まれはしないだろうかと、不安で緊張してしまう。行楽で景色を見てもカメラが多すぎるのはチョット。
匿名
僕の持論「良くしゃべる職人は居ない」だ。口述を生業とする以外の、手足や頭を使う職人、つまりプロの仕事だが、カメラも絵画も、書も、音楽も、大工も、みんなプロフェッショナルな人は無口だ。ペラペラと口の回る人はカルチュア‐スクールなどの目立ちたがり屋の講師や講釈師だ。プロを自称する人の中にも二通り居る。「営業肌」と「職人肌」。営業肌の人は自分を売り込む事が先決だが、職人肌は口で表現しきれない分、そこに魂が入った作品で表現できるのだろう。全ては、その人の費やす時間配分にも関係していると思われる。人物写真や絵画などの作品も被写体や相手との関係で表現は大きく違って来るだろう。
昔の少年
井戸端会議、和やかでいいですね。肩の力を抜いたお付き合いが出来れば、気取らず本音で会話できますからね。ちょっと前までは営業先で訪問する会社の中まで見渡せて、親しく談笑しながら打ち合わせできましたが、いつの日からか、どこの会社も壁を作って中に入れてくれません。呼び鈴があるだけで、さっさと帰れと言う感じです。中の人たちの表情も見えないので社員の数も、役員の顔も見ずに単なる御用聞きみたいな営業になってしまいました。かつては大企業でも「こっちに来て」と担当者の隣に座らされたものです。訪問先も見えないところで、Eメールも見えない相手とやり取りしていますが、一度だけ名刺交換した人などの顔も忘れるくらい人間関係が希薄な社会に変わっていますね。カメラ付きPCでのやり取りもできますが、自分の顔のアップ映像など、自分が見てもグロテスクで、とてもお見せできませんけどね。