孤独に強い人は心にもう一人を持っている?!六法全書のこと。
「孤独に強い人には横に母親がいる」とか「孤独に強い人には死ぬまでに必要な財産を親が残してある」とか「孤独に強い人は神を信じている」とか、どれかだろうか?「心にもう一人を持っている」とは、所詮、人間はひとりでは生きられない生物の証で、その一人が「妻」であったり、両親であったり、親友であったり、恩師だったりする。「言葉」である場合もあるかもしれない。良心だと言う人もいるが、私は抽象的過ぎて疑問を持っている。遠い先祖のDNAでもいいわけだ。
でも、「孤独に弱くてどこか悪いことがあるのだろうか」という設問も可能で、ほとんどの人はこちらに入る気もする。私たちは、どこか「孤独」と「孤立」を勘違いしている気がするのだ。孤立している人が、一見、「孤独」そうだけど単なるへそ曲がり、嫌われ者で「孤立」してるだけという図はどこの集団でも見られる。傍から見ていて、自分で自分を孤立させている、そしてナルシス的に「孤独」に陶酔して威厳や存在感を、威圧感を相手に与えて仕事せず給料泥棒をしていく輩をたくさん見てきたから。
それも彼の人生で、他人からとやかく言われる筋合いの話ではないが。黙って本を読んでいれば、傍から見れば「孤独そう」に見えて、実は、「充実のとき」でもあって、孤独どころか書き手と対話しているかもしれない。書き手は、もうとっくに死んでいる人であっても対話できるとは、本は恐山のイタコみたいだ。「こういう場面で、死んだ親父ならどうしただろうか」と考えたり、「これをしたらお天道さんから叱れる」とかもある。もう彼の大脳の中に住んでいるのかもしれない。
すでに物理的に死んだ人もちゃんと彼の中で生きているわけだから、故人は死んではいない。自分を思い出す人がいなくなればそこで2回目の死がくるのかもしれない。輪廻転生を信じてる人は、次は豚になったり、牛や昆虫になったりする。一神教を信じれば、終末の神の裁きまで土の中で待ってる必要があるから疲れてしまう。いつまでたっても裁きの日が来ないと、インチキ宗教の様相になるから不思議な宗教が人類史に入り込んできたものである。幼い時の洗礼や洗脳って怖いなと思う。宗教は必ず、宗徒を減らさないように子供を道連れにして教団へ連れて行く癖がある。ユダヤなら割礼を男子に施したりする。子供からしたら迷惑な話だ。
私は次男・次女の両親に生まれて、住んでいたアパートには仏壇や神棚がなかった。お盆のお墓参りさえ奇習に見えた。私は外国人ではないかと思った。一度、お盆の行事を見たくて同級生に頼んで、彼の先祖の骨を納める納骨堂へお参りにいかせてもらった。寺の高い所にあったので、ハシゴに昇りお参りした。見よう見まねであった。
私の兄弟3人がこうした盆や正月の行事に全くうといのは、実は背景に、先祖を迎える、先祖を供養する習慣がゼロだったことも関係している。日本人でありながら、どこか異国の人であるような不思議な感覚で65年を生きてきた。私もだから孤独に強い方かもしれない。父親の葬式で宗派を間違えたり、紋を間違えたりしても気にならない。無事にセレモニーは終わればいいのである。私の同僚や友人で筆者を変な奴、常識のない人間と思ったのはたくさんいたと思うが、なんとか生き延びてきた。
大学の同級生が何人か50代に死んでいる。共通は法律にがんじがらめを職業にしてきた人たちだ。六法全書という最低の日本語で書かれた本に基づいて、それを商売にしてきた人たちだ。日常言語ではなくて、毎日、法律言語を喋る息苦しさを思う。「弁護士はよくペラペラ喋る」。なぜか、日常言語を激しく欲しているからである。午後8時を過ぎて、職場に「俺だ」と弁護士のNから電話がよく来た。喋り出したら止まらない、20分30分と話し続ける。いまこういう案件を担当しているが、大変だわ。大学教授宅の犬が近所の人の指をかみ切ってさ、その裁判があって、教授側の弁護士をすることになったけど・・・・延々と。「そろそろ俺も帰るから、ごめん」「悪い悪い」。彼の孤独を思った。守秘義務のキツサを思った。法律とその解釈が、先例が神なのか?英国のようにコモンセンスを尊重する慣習法がいいな。常識で裁く裁判が一番いい気がする。子供も老人も間違いなく理解できる日本語で。彼は54歳で夜中、事務所でクモ膜下で急死した。お通夜は弁護士の金バッジだらけ。ヤクザの集団を思ってしまった。
昔の少年
宗教も自由だし、とやかく言える立場にも無いが、数ある中でどれかと言えば、好き嫌いはあれど先祖代々の宗派になる。お寺側にすれば我が家は、今では信仰も薄く、ありがたくない檀家になるだろう。世代交代とともに仕方が無い事と思うが、長男が亡くなって、末っ子でありながら、僕が仏壇を預かる事になり、その義務からは逃げられない立場になった。人はその立場立場で行動せざるを得ないし、或る程度の義務を果たす為には多少の犠牲も払わなければならない。と言っても十分な事もできず田舎の親戚縁者たちから見れば罰当たりと言われているに違いない。神仏の教えも知らない今の僕にとって、宗教とのは先祖代々の慣習のようなもの。毎朝仏壇に供え物や花を添え、鈴を鳴らし、亡くなった人や動物たちの残像を思い浮かべ、生前受けた感謝をする事には何の抵抗も無い。親父も僕以上に無宗教だったので「父さんが死んだら、お前の仲間の楽団で賑やかにやってくれ」と言ってはいたが、本人が亡くなり、田舎での葬儀となれば、唐突なセレモニーもできず、これまでの慣習通りの宗派の葬儀となった。人とは別の生き方をしたいなどの気持ちとは別に、社会の大枠の中でしか生きていない自分に気が付く。人里離れた山村に住むご老人がスーパー・カブに乗って坂道を上がって来た。耳を疑ったが、何と102歳だと言う。足腰も弱る年代?どころか、お隣の100歳近いご老人は歩行器で散歩しているのさえ感心したのに。102歳のご老人は今も山や畑の仕事をしていて子供達の世話になりたくないと言う。綺麗な空気と人間関係の無い自然の中の暮らしが逞しさを身につけたのだろう。彼曰く「自然に感謝し、人を憎まず」。彼の表情は穏やかだった。
狼少年
孤独には馴れています。小学校でも「いじめられっ子」だった僕は悔しい思いを何度も味わった。家がお金持ちで体格の良い子がリーダーで、貧しい僕は好きな絵を描く写生会に絵具を薄めて描いたが、彼は絵具をチューブから画用紙に絞り出して指でこすって描いたりして、まるで油彩のような仕上がりだった。また竹馬の友(近所)もサラリーマンの子で、彼は毎日遊び放題が羨ましかった。普段二人は仲が良かったのに学校では体制側に付いて、僕がいじめられて、切り出しナイフをかざしてグランドを追いかけまわしたりしたのを彼の母親に見られ教員室で絞られました。少しでも強くなりたくて剣道を習い始めたものの、一番の不良が入部して来て、またやられました。そんなこんなで友達は信用できず、一人で居る方が居心地がいいと決め込んで以来、他人と深くかかわり過ぎないようにしています。