一神教の起源としてのゾロアスター教
『スターウォ-ズ』がゾロアスター教の『光』と『闇』の概念をヒントに作られていうのは有名な話だが、果たしてギリシャ哲学者やユダヤ教やキリスト教へも大きな影響を及ぼしたゾロアスターって一体なんなの?という話だ。
参考図書は『図説 世界を変えた50の宗教』(原書房 ジェレミー・スタンルーム著)の116ページだ。50も大きな宗教はあったのかと思って図書館で手に取ってみたら、キリスト教関係が15人、イスラム教13人、ユダヤ教10人、ヒンドゥー教と仏教で6人、その他(孔子・老子・ゾロアスター)で6人という本だった。宗派を数えている本でした。
そこでその他のゾロアスター教だ。現在は、インドとイランに約15万人の信者がいる。開祖はザラスシュトラ。現存する最古の一神教信仰体系を保持する宗教と解説されていて、開祖についてはほとんど知られていない。しかも、生存期間も紀元前1900年~600年、現在のアフガニスタンにあるバクトリアという都市に居住していたらしい。
どこの宗教の開祖もそうであるが、ある日、アフラ・マズター神が開祖に姿を現して、天地の創造主として、唯一神として崇拝するようになったという。アフラ・マズターは、天地創造に際して、偉大な二つの霊を創り、それぞれ善の道と悪の道を選択する自由を与えた。正義と善の国と虚偽(悪)の国を作った。
ザラスシュトラによれば、人生は善と悪の二元的な闘争である。さらにゾロアスター教で、最後に、どちらの道を選んだのか、なぜそれを選んだのか最後の審判でひとりづつ呼び出されて説明をしなければならないとされる。それによって来生で褒美を受けるか罰を受けるかが決まる。そうザラシュトラは説いている。
プラトンやアリストテレス(紀元前6世紀)もゾロアスー教の教義については知っていた。これはユダヤ教やキリスト教の最後の審判に酷似していて、一神教の起源がフロイトの言うエジプト第18王朝アメンホテップ4世のときにモーセがエクソダス(出エジプト)で紀元前1300年頃なので、そのとき一神教を運んでいった(シナイ山での啓示)のか興味あるところだ。蛇足ながらモーセの十戒の最初の三つの中身はこうだ。(1)あなたはわたしの他に、何ものをも神としてはならない。(2)あなたは自分のために、刻んだ像をつくってはならない。(3)あなたは、あなたの神と主の名を、みだりに唱えてはならない。
紀元前1900年前後なら、当然、一神教はゾロアスター教起源として考えたくなるし、1300年前後ならモーセが導きいれたのかもしれない。どちらにしても、こうやって一神教が人類史に舞い降りてきて現在に至る。一神教が人類史に与えた功罪は果たしてどうなのか?そこから少し離れた極東の日本で、そろそろズバッと一神教の国々に生意気なようだけど判定を出してもいい時代になってる気がする。
私の判定は、歴史年表を見ていて流された血の量を考えて、罪の方が多い気がする。多神教の持っているいい加減さ、非厳密性、あれも神、これも神、古(いにしえ)のローマには20万の神が住んでいた(塩野七生 ローマ人の物語)。欠点のある神が恋しい。そういえば、夫婦ゲンカを仲裁する神様もローマにいたから、現代日本に舞い降りたら離婚も少なくなり、子供の心に傷を負わせる家庭も少なくなっていいね。そう思いませんか?ザラスシュトラさん?
匿名
神や仏も、実在する人物に身体を借りて、この世に現れたとすれば、処刑されたり、逝去後も、別の人物に姿を変えて現存すると言う事になるのだろうが、僕の身近にはそのような人は居ない。しかし、信仰心の厚い国や地域には神仏の教えや政を司る人達は多く存在する。宗教もいろいろだが、神仏は、欲張りで我儘な人間をコントロールする為にも、情操教育のためにも、連帯感を強めるためにも必要だったのではないだろうか。現代にも太古の昔にも天変地変と思える自然事象など、今も解明されない地球や宇宙の謎を、天罰と言う形の神仏の怒りとして解かれ、強い信仰心を駆り立てた事も事実だと思うが、宗教が果たして悪かと言えば、そうではない。つまり神仏の名を借り、信者の集団行動を間違った方向にコントロールする人物が、各地で紛争を巻き起こしているのだろう。どんな神仏にせよ、正義は一つ。間違った教えなど無いとしたならば、「軍隊」の派遣ではなく、各国から「宗教連合」の名の基で、今も各地で勃発している紛争の鎮静化に一役かっていただけないものかと、常々思う。
昔、昔の少年
身近な宗教と言えば、僕の祖父が浄土真宗大谷派のお坊さん。父は継がず一時はキリスト教。僕の信仰心は、預かった仏壇にお供えを毎朝あげて、記憶に残る親族の名やペットたちを思い出して拝んでから仕事に出かける。時折、お彼岸やお盆には寺に行く事もあるが、田舎の寺やお墓は遠すぎて、中々行けない。田舎ではきっと僕の事を無信心の罰当たりと呼んでいるだろう。それほど田舎の人達は信心深い。友人にも宗教に関係した人は沢山いる。内容はよく知らないが、勧誘された事や、自宅にも勧誘には何度も来るが「我が家は浄土真宗で、、」と言えば、それ以上は薦めない。また神道一家の友人も居る。一緒に参拝に行けば、長い祝詞を何種類か滔々とあげる度に感心するが何度聞いても覚えられない。僕も何度も聞いているお教さえも未だに覚えられない情けない坊さんの孫だ。日本にも世界にも宗教は一体どれだけあるのだろう。そして、なぜ、争いが起きるのだろうか?。