人間の意識というものは「止まっているものしか扱えない」(養老孟司)
福岡伸一「せいめいのはなし」(133p)で養老さんが言った言葉。いわゆる情報はすべて止まっているから意識が扱える。テレビのニュースも新聞記事もヤフーニュースもすべて、過去のこと。現在からみたらすべて過去完了形の事柄ばかりだ。大きな事件から見たら、「もう終わっている」ともいえる。
熊本の地震や福島原発の汚染水処理、燃料棒の摘出はいまも連続してるから、現在進行形だ。誤解が多いけど、「情報は止まっているものの典型(養老孟司)です。」「おっしゃるとおり。(福岡伸一)」。情報という言葉に私たちの感性が反応し過ぎて、大きな誤解があるけど、動いている事柄を自分も動きながら把握する(し続ける)ことは可能なのかどうか?書いたり、カメラで撮影したらそれはある断面の静止画像・ある価値観の切り口で書いた事象で、そのために多分、何百倍の現実が捨てられてあるに違いない。
獲得することは、たくさんの現実や選択の可能性を全部捨てることにつながる。進学や就職、結婚、住む町、住む家、すべてだ。一つ選んだら、残りの可能性は捨象する。捨てないと獲得できない。選ぶことは同時に別な可能性を捨てることだと覚えておくと、人生観が広がる。日本のニュース、世界のニュース、近所の事件でさえ、偏った切り口(カメラの位置)で流されるから信用は厳密にはおけない。「現実は流れている」水のようなものかもしれない。とらえたと思ったら、もうあっちへ行っている。
大東亜戦争も、戦争現場の真実はほとんど知られないまま風化している。そこにカメラマンもいなければ報告ができる筆力を持った人、冷静に分析できる人がいない限り、それはなかったことになる。なぜなら、そこには「意識」(見る人、考える人)が関与しないからだ。たとえ関与しても事件の全貌を知ることは不可能だ。ドキュメントフィルムがあるではないかと言う人もいるかれど、その作戦がどうして誰が何を発言して遂行されたかは、フィルムからは伝わらない。そして分析する人もある方法論で現実を見るから、昆虫採集をしてピンで分類する作業に似ていて、生きたまま丸ごと伝えることは不可能だ。人間の意識が静止したものしか扱えないとはそういうことだ。
だったら、どうするか?生きた現実をありのままに認識すること・感じることは不可能なのか?心の動きを含めて、自分の一日を思い出して振り返って記述してみればわかるけど100%再現は不可能だ。ひとりの人間の一日でさえこうなのだから、太古からつながる人間の歴史を大海にたとえれば、われわれの知ってることは岸に打ち上げられた古木数本くらいの量かもしれない。古木に文字の記録や古代人が使った道具やある時代の知恵者が残した物語であったりする。しかし、古木の向こうに広い海が、再現されない記憶や記録の海が広がっていることを想像すると、人類の歴史は、実は全然違う歴史の可能性もあって、どこかで記述を間違えたかもしれないとも推理できる。
その海こそ、捨てられた現実の総体、忘れられた無名の人たちの思いかもしれない。
急ぎ過ぎるぎる時代。
かつて僕も写真をライフワークにしていた事がある。仕事にもあそびにも毎日ニコンのF2に28mmのシフト・レンズを付けて右肩に掛けていた。それもフイルム・カメラの時代だ。写真は或る一瞬を切り取り、保存する。モノクロは自分で現像もしていたが、撮影の瞬間画像は頭の中にも残されていて、期待通りの瞬間映像が焼きあがると喜びもひとしおだった。しかし、世の中がデジタル進化するに従って、そんな楽しみも無くなってしまった。あまりにも瞬時に結果が出るからだ。カメラも手放してからは、むしろ、昔、心得があった絵でも描こうかと思うようになった。