一神教はある意味で寛容だ(佐藤優)
橋爪大三郎さんと佐藤優さんの「あぶない一神教」~なぜ日本は世界で孤立するのか?キリスト教徒23億人。イスラム教徒16億人。彼らのルールを知ればすべてわかる。サブコピーに魅せられて筆者は買った。37p(小学館新書 2015年10月)
佐藤 特定の宗教が寛容だ、不寛容だとレッテルを貼っても実証的に見ればすぐに否定されてしまいます。ただ、あえていうなら一神教は、ある意味で寛容です。他者に対して無関心ですから。
橋爪 基本的には、他者と比較しませんからね。自分が神の意思に従って、正しく生きていけばいいわけです。
私のブログでは何度か一神教について、フロイトの「モーセと一神教」や岸田秀さんの「一神教VS多神教」をベースに寛容な多神教と不寛容な一神教をという視点で書いてきたので、「他者に対して無関心だから寛容」という発言や「他者と比較しないから寛容だ」というふたりの発言に筆者は考え込んでしまった。
一神教への理解がなければ現代世界は理解できないし、こういう発言にぶつかると私の思考は混乱する。考えてみると、ラオスかタイの仏教僧たちがイスラム教徒を襲い虐殺しているニュースは外信の小さな記事やニューズウィークで読んで知っていたが・・・・。クリスチャンのマザーテレサの「死の家での看取り」などを読むと、ヒンズー教徒やジャイナ教徒、様々な貧しい人々に対する献身につぐ献身は、橋爪さんの言う「基本的には、他者と比較しませんから。自分が神の意思に従って、正しく生きる」を淡々と実践している、超寛容な人生観のように思えて頭が下がる。
彼女ならたとえシーア派だろうとスンニー派だろうとイスラム教徒であっても(彼らはインダス川には来ないだろうけど)、そばに寄り添う人だ。アフガニスタンで井戸を掘ったり灌漑のための用水路を現地人に指導したり、医師として活躍されているベシャワール会の中村哲さんもクリスチャンだ。アフリカで風土病と戦ったシャバイツア―博士もクリスチャンだし。
筆者は、寛容とか不寛容は、やはり差別、それも富の偏在や、失業、家族が殺されたとかの恨み、自分への近隣からの侮蔑的な発言など日常生活を送る上で、「自分の責任ではないことにより、誰よりも大きなハンディを背負わされた人々の逆襲(精神のバランスの回復)」のような気もするのだ。笑い声の絶えない家族があって、毎月食べていける稼ぎがあって、爆撃されない家があり、安全な水が確保できて、安い主食が売られている社会。
旧約聖書のモーセ(歴史的には存在しなかったとされるモーセ)が生きた紀元前13世紀から21世紀の今日まで、生きるための最低条件が満たされない人々が増えて、今いる場所から逃げて行かないと殺される。そういう時代に入ってしまった。世界中の難民だけでなくて、企業内でも窓際に逃げたり、心療内科へ逃げたり、アルコールへ逃げたり、賭博へ逃げたりするサラリーマンは生命の危険は少ないとはいえ、不寛容な集団の犠牲者かもしれない。
マーケティング。
危ないとされるカルト教団も存在する現代、どこまでが宗教と言えるのかは分からないが、新興宗教や分派の宗教の活動は活発だ。毎日通る場所にある仏教系宗教施設は女性信者が殆どで老若を問わず大盛況だ。何がこれほどまでに魅力的に人を呼ぶのか知りたい気持ちはあるが、その理由は信者にならなければ理解できないのだろう。俗っぽい話だが、みごとな集客法と囲い込みをマーケティングに活用できればぜひ御教授願えないものだろうか。
死人にハカナシ(墓無し)(儚し)
飾らない裸の自分を置ける場所が宗教なのだろうか。まつりごとをつかさどる者たち以外の信者たちには上下関係もなく平等の立場になるのだろう。或る宗教の集団墓地を見たが、どれも競うことなく同じ墓石が並んでいた事からもうかがい知れる。生きている間は人間関係やしがらみで壁を作ってはいるが、死んでしまえば皆同じと言う考えにはうなづける。しかし大抵は墓石や石碑で生前の存在価値を残そうとする事も多い。僕などは墓も要らないし骨も完全焼却して残して欲しくない考えだが。自分が死んだ後の事は指図もできず、生きている者たちにゆだねるしかないのだろう。お盆も来たので、先月亡くなった友人に花でも手向けに行こうと思っている。まだお骨は自宅にあるらしい。