引きこもると欲望が低下するわけ。

欲望は他者の欲望を模倣することで生じる感情なので、「あの人のように出世したい」とか「あの人が持っているあのスマホが欲しい」とか「あの人が付き合ってるような彼女が欲しい」とか「あのショーウィンドーに飾られたバックが欲しい」とか、自分が心から欲することでも、以前に何かの(誰かが持っている)模倣から欲望が生じているはずだ。いい例が車だ。近所の人が「絶対、乗るならプリウスしかない」と断言された。そんなことはないと思うのだが、天井は低いし息苦しい感じにならないかと思うが、どこかで誰かの洗脳的な言辞やCM動画で「プリウス」と思い込んでしまったんだろうな。

それで、引きこもりと欲望の低下の話だ。欲望は出会う商品や異性に出会うとそれだけ欲望が発動する(こういう日本語って適切かどうかと思うが)。たとえば、20年引きこもる甥は「おじさん、僕はほとんどお金を使わないよ」と自慢していた。豪邸の2階に住んでいて、インターネットせず、携帯持たずだ。しかし、どこにもつながらないデスクトップパソコンはある。彼の欲望は「できるだけ長生きしたい、健康維持のため夕方、隣町までウォーキングする」母78歳、父80歳だ。本人はテンカンだというが、脳神経医師では大脳にテンカン部位はないと診断されている。1か月に1万円も使わない暮らしだ。三度の食事と水道光熱費は親がかえだが、生きるために生きている感じだ。性欲は自分で処理するしかないが、インターネットがないのでどう工夫しているのか。中森明菜の熱烈ファンなので、寝る前に聞いているのかもしれない。

出かけることが少ない人たちは消費購買意欲も、接する人間の数も少なく、彼らの文化刺激・持ち物刺激・イベント刺激に触れることもなくて、欲望に着火しないので「〇〇が欲しいい」はTVのCMの中から間接的に喚起されるわけだ。私は稼いでいないので親に迷惑をかけられないから、できるだけ欲しいものやお金がかかるものは極力我慢する。我慢するうちに欲求が低下してしまうのだ。

そうは言っても、最後は自分を認めてくれという「認証欲求」は残る、どうしても残る。市民合同墓地にしても、せめて「記銘板」ぐらいは、俗名で残して欲しいと考えるようになって、どうしてかというと子供と孫が名前を見つけて欲しい、それだけの欲望なのだ。葬儀や墓にお金を使いたくないと思う一方、せめて名前だけは残したい。「おれはここにいるぞ、生きているぞ」と合図を出している甥を止めているのは両親の世間体だけだ。