ペストの歴史(第6回)黒死病の遺産
前回(5回)ではペストによる人口の減少について、国別・地域別に書いたが、毎日暮らす人々にとって、その日常生活はどう変わっていったのか、生き残った人びとはどこへ移動して自らの人生を組み立てていったのか。家族や友人・知人を失い絶望的な気持ちになったことは疑えない。
しかし、「ああ、悲しいかな。このように世界が一新された後でさえ、この世界は少しも良い方向には変わらなかったのだ。その後、人びとは、以前よりもいっそう多くの財産を所有したにもかかわらず、ますます欲張りでけちになった。さらにまた、貪欲になった人々は訴訟や口論や裁判沙汰で心を乱すばかりであった。神から放たれたこの種の恐るべき疫病が止んでから後でも、諸国の王と領主の間には和睦は結ばれなかった。それどころかフランス王と教会に歯向かう敵対者どもは以前よりもいっそう強力かつ邪悪なものとなり、海や陸で戦争が引き起こされた」(ヴネッド・フランス年代史)。
人口が減り、労働者不足になり、その賃金は上昇して給与が上がり、暮らしが楽になったのである。フィレンツェでは、ペスト流行で田舎へ逃げた人々が街に戻ってきた。「人々は都市に戻りはじめ、家の中に入って家具の具合を調べ始めた。しかし、財産があふれるほどありながらも、そこに主人のいない家が数多くあった。・・・・間もなく財産を相続する者が姿を見せ始めた。こうして疫病前には一文無しだった者が、相続人として金持ちになった。・・・こうして相続人として不適格と思われる人が、男も女も、衣服や馬に金をかけて贅沢な暮らしを始めた」(フィレンツェ年代記・マルキオンネ)
死者の財産が舞い込んできたのである。地域や時代を問わず、どこでもあることだ。ペスト研究者にはこの点についての論究が少ないと著者(宮崎楊弘)は言う。彼らはそれを消費して生を謳歌し、贅沢を堪能し、怠惰と消費にうつつを抜かした(全員ではないと思うが・・筆者)
都市での暮らしが、その賃金上昇や歓楽があって、農村は放棄されて廃村も目立ってきた。人口減で食糧の需要も減り、耕作を放棄する農民は都市へ都市へ移動したのである。オオカミやイノシシ、熊など野生動物が跋扈してきた。イングランドでは1350年から1500年にかけて1300か所以上の村が廃村になる。したがって、これまで農民を支配下に置いていた領主たちも没落していった。領主制そのものが崩壊していった。働く者がいなくなったからである。
ペストの流行は、しかし、制度や行政面で新しい措置も講じられるようになった。それは経験的に学んだのは、都市を清潔にすることであった。井戸や泉の洗浄、上水道を設置、市内に堆積した汚物を排除、街路を舗装・清掃、不要な樹木を伐採して風通しや日当たりを良くし、墓地を整備・郊外へ移転した。また近隣からペスト情報が入れば、市門の閉鎖に踏み切った。公衆衛生で真っ先に手をつけた町はベネチアであった。港町でもあって、ここから港での検疫がどれだけ大事か、現在につながる貿易港での検疫制度はペスト菌の伝播が作ったともいえる。荷物の隔離措置である。1348年3月、ベネチアに入国する船は40日間停船・隔離期間を設けたのである。マルセイユでも1408年、検疫制度を採用した。
また、公認の機関が発券する健康通行証というペストにかかっていないことを証明する旅券も出した。後に近代国家が発券する旅券の起源だ。15世紀イタリアから始まったのである。「健康通行証は病気の拡大を阻止する非常線」。また、死亡告知表を正確に記す習慣、残す習慣も涵養した。さらに、危機管理として、生き残った人々への食料供給のために備蓄と穀物倉庫の確保など現代の危機管理と変わらない制度をイタリアでは制度化していた。
明日は「地震エネルギーの10%は日本で放出、黒澤明のこと」。
匿名
時代の変わり目と言うのは、こういうものなのでしょうね。大きな災害や疫病の流行や戦いが、良くも悪しくも次の時代への転換期になっている訳ですね。昨日は、朝からテポドン発射で世界を騒がせている小国も何時かは何かのきっかけで次の新しい時代を迎えるのでしょう。これ以上の傍若無人が許されない事に気づくチャンスを現代の神は彼らに与えるのでしょうか。