身の上相談所としての神社やお寺。
近所の神社で神主をしている知人がいて、暇になったら遊びに行く。道の駅でコーヒーを飲んだりすることもある。札幌で現役時代は同業にいたので、共通の知人も多い。
ある日、私は「神社にしろお寺にしても、もう少し地域社会に顔を出して、信者とか檀家だけでなくて、困ってる人や手を差し伸べて欲しい人たちに、何でも相談、登校拒否児の私塾とかホームレスとか家出をせざるおえない人を匿う役割を果たせないのか?」と問いかけた。
お盆も近づき、寺は檀家回りで稼ぎ時だ。昔は落語の世界にあるような、長屋的・お節介的・覗き見的・何かあったのかい?というたくさんの他人に囲まれて子どもたちが生きていた。小さな頃から知っている子供は地域の財産でもあった。「あいつが今度、どこどこへ入学した・就職した・結婚した・離婚して子連れで帰ってきたからみんなで面倒も見よう」とか単なる覗き見趣味もあるけれど、皆に知られてるがゆえにオープンで自分自身が地域に包まれていた。
そういう地域社会が社会福祉的な機能を備えていた時代は、別にお寺や神社はそこまでの役割はする必要もなかった。檀家回りと年末年始の神社詣で良かった。しかし、ここまで細胞化した家族(同じ屋根の下でも孤立した部屋・高い塀で心理的に囲んでいる)になると、お互い見えないことばかりだ。昔は近所に叔父さんがいたりして、男の子は父親以上に教えられることが多かった。女の子は叔母さんだ。
しかし、親戚付き合いも冠婚葬祭以外は無きに等しい。そういうときに、意外と普段友人だと思ってる人は存外頼りにならず、心の中をうまく言えない人が多い。筆者がきょうのブログで書きたいのは、近所の住宅街にあるお寺がいろいろよろず相談室、駆け込み寺、家出人の宿泊所として機能できないかということだ。神社にしても敷居をずっと低くして迎えて疲れるであろうし、お金もかかるだろうけど世の中の簡易お助け組織として復活できないかということ。
京都の西本願寺の屋根の瓦を積んでいた時に、東本願寺も寄ったが、こんな街中で広大な大広間や別館を持ち、炊事や料理もできる設備を持ってる寺がここだけでなくて、京都のあちこちにあることを考えるとまずは本山からやれば、全国へ広めることは簡単だと思うし、寺や仏教の本来の姿に、宗旨や宗派は違うのだろうけど、釈迦の望んでいる営みではないかと妄想する。説教を発するのはもういい。具体的に一時的な食べ物や住み家、駆け込み的な空間(アジール)として地域住民に開放されれば結果として檀家やファンは増えると思うがどうだろうか。
神社にしても、古事記や日本書紀の頃から、神道の歴史には詳しくないが、政治の諸団体に利用されてきた歴史があるので、危機になれば動き出す危険性はあるけれど、困った人を助ける、悩んでいる人を慰撫する働きはあるはずで、戦後、働きを求めて都市に集まってきた地方出の人々を創価学会が、信者の家に集めて、貧困・病気・片親の死・離婚など悩みを聞いて「同じ悩みを共有する生活共同体」として爆発させた背景に、既存のお寺や神社の無策があるのではないのか思う。このままいくと檀家は急激な縮小に入ることは目に見えている。肝心の葬儀でさえ、寺へは頼まず、私などは居間に1日置いてもらい、そのまま焼き場へ持って行ってもらい、樹木葬を考えているくらいだ。納骨堂はあるが、あの住職と関わることは遠慮申し上げる。
坊主の孫。
神社にも寺にも派閥があって簡単には行かないでしょうが、神主も住職も意外に多忙なのではないでしょうか。大きな寺などを守るには毎日の掃除だけでも大変です。庭の手入れも同じです。毎日のお勤めも決まっていて、外からは計り知れない仕事が山積していて家族ぐるみで檀家の方々を気持ちよく迎えるために苦労も多いと思います。ですから、檀家や地域の人達が協力して負担を軽くしてあげれば、そのような事も可能になるかも知れませんね。
神社も寺も遊び場。
暇な神社、暇なお寺ってあるんですかね。僕の田舎では、神主の居ない神社はありました。そこは子供たちの遊び場でした。神社の祭事は穢れの無い子供たちが自ら進んで行っていて大人は手出ししませんでした。それは代々受け継がれていて村の鎮守の神様は子供たちで守られていたのです。そんな八万神社も、観音堂もありました。雨の日には観音堂でメンコをしたり、大きな扉にぶら下がって開閉して遊んだり、雨宿りしながらの遊び場でした。休日の小学校のミニ児か、公園のようでしたね。暇な神主さんも、暇な住職さんも居ませんでしたよ。
悩み多き昔の少年。
時間を持て余しているご隠居さんの寄り合い場所があればいいのですが、最近は病院に沢山集まっていますね。待合室は情報交換の場で、毎日満員御礼状態です。最も本当に体の具合が極端に悪い人も居ますが。少しでも元気を持て余している人たちの有志が「よろず人生相談所」を立ち上げたらいいかも知れません。果たして相談に対して解決できるかは別ですが?。しかし身の上相談は超極秘個人情報ですから、おしゃべり好きな人には向かないでしょうね。町内中触れ回られれば一夜にして公開されてしまうでしょうから。
神童に成れなかった少年。
落語の世界でも判る様に、昔は時間がゆっくり回っていて、みなさん心にゆとりがあったのでしょう。今ではみんなせっかちで短絡的になってしまいました。時間を持て余している人たちもそれぞれが何かしら奉仕活動や遊びに時間を費やしていて寺や神社に出向く人も少なくなりました。神道でもない僕などがたまに神頼みに北海道神社に参拝に行くと日本人はほとんど居ない代わりに中国圏、アジア圏の観光客の人達ばかりです。彼ら彼女らにしてみればパワー・スポットなのでしょうが、我々日本人にとって一体何なのでしょう。一部の人のものでしかなくなりましたね。家の中に「山の神」が居るからでしょうか?。神も仏も信じない人々が寺や神社には来ませんからね。時代の流れですか。神社に行くときは神道の友人と行くと祝詞をあげてくれます。まるで神主さんみたいに。
死人にハカナシ(墓無し)(儚し)
人生相談よりテロをやめさせる方法は無いでしょうか?人生経験豊かなご隠居さんたちが集まればいい知恵も出るかもしれませんよ。平和で安全な日本に外国人が殺到すれば、やがて東京も札幌も標的にされないとも限りませんからね。今、世界中が、一番困っている事を解決してくれるといいですね。憲法改正などで、次世代の人たちが大事にならない内に。