人種差別の基本的な4つのタイプと囲われた住居。
鈴木孝夫さん著「日本人はなぜ日本を愛せないか」(新潮選書)に欧米の人種差別について「もっと知ろう」「もっと知っておいていい話」がたくさん書かれてある。人間一人一人、首から上もあれば首から下もあり、明治以降、西欧の使節団はどちらかといえば首から上を見て(真似をして)近代化を遂げてきたが、首の下を見る見方が現代でもできないでいることに警鐘を鳴らしている。一例を現代でも続く人種差別に切り口を置いて書かれてあったので、紹介する。もともと西欧人で自らの西欧文化の欺瞞性に気づいて書いた知識人もいるが、主流にはなれないとも書かれてある。4つのタイプに人種差別を分類している。
1)他人種(多民族)締め出し型。
2)居住地隔離型。
3)上下棲み分け型。
4)多民族(人種)抹殺型。
鈴木孝夫さんは、このなかで(1)から(4)まですべて実行したのが、ゲルマン系の民族で、(1)から(3)はゲルマン直系のアングロ・サクソンとノルマン・フレンチが主流のイギリス人(その分家がアメリカのWASP)によって実行され、(4)は生粋のゲルマン人を誇ったドイツ人が実行した。しかし、だからといってフランス人やスペイン人がひどい人種差別をしなかったわけでもない。
明治以降、日本に最も影響力のあったイギリスと人アメリカ人には、そのように日本人の理解を超える一面があることはぜひ知ってほしいと鈴木さんは言う。さらに雑談として、近年、アメリカで多くなったゲイティド・コミュニティ(gated community)と呼ばれる高級住宅地が2万以上建設され住んでいる。白人脱出(ホワイト・エクソダス)とも言う。郊外の広大な土地を高い塀で囲み、門兵がピストルを持って人の出入りをチェックする。筆者は一度だけのアメリカ視察旅行でビバリーヒルズをバスで外から走ったが、銃社会だからこうでもしないと自分の身を守れないし、長屋暮らしが長かった私からみたら異常な世界、典型的な他人不信の社会だと思った次第である。兵庫の芦屋の住宅街も歩いたがあちこちテレビカメラを置いて警備員から監視されてる程度で、ゲイティドコミュニティには遠い気がした。しかし、人間の「幸せ感」からいくと「安全が第一なのかどうかわからない」。
高級住宅地に住む人々の職業はITや金融関係で30代も多い。札幌でも高級なマンションは他人が入ってこれないよう出入り口を厳重にしたゲイティドマンションが好評だし、川崎に住む私の兄も、家賃は高いがゲイティドに近いマンションに住んでいる。「こういう場所に住まないと郵便受けも荒らされるんだ」と言っていた。差別は住む場所がどこであるかで始まるのかもしれない。昔も今も。差別される側はいつも押し込められる。
しかし、古代から中国にしても中世のヨーロッパの都市も考えてみると壁の中で生きてきた。異民属からの侵入を防ぐために万里の長城を築いたし、城の周りに住民を住まわせて、夜になれば門を閉じてよその人間が入ってこないようにしていた都市国家を考えると、海に囲まれた日本人には理解しにくい。壁があって初めて安心して生きられる、そういう生活習慣が身に着いているからゲイティド・コミュニティは新しい生き方ではないなとも考える。
塀のある街、塀の無い町。
アラモの砦でもないが、あらゆる処に防護柵や塀が見られる。宮の森あたりの高級住宅地と呼ばれる辺りは高い塀で閉ざされていて、中は伺い知れない。当然ながら中からも防犯カメラ映像以外、外の様子はうかがい知れないに違いない。それは刑務所にも似ていて、貧乏人の僕には、塀を見て暮らしていて何が高級な暮らしなのか疑問でならない。しかし、本州でもそれなりの家々は塀が巡らされている場合も多い。この場合は土地の区分を明確に主張していたり誇示したりしている。一方マンション暮らしも様々ではあるが、昔の長屋の発展形(現代版)ではないかと思う。でも現代の長屋は決して低所得者の味方ではなさそうだ。札幌に移り住んで、高級住宅地には縁の無い僕は「札幌には高い塀が無く開放的」と感じていた。高給住宅地以外、塀があったとしても腰丈以上の塀は余り見かけない。だからと言って人種差別が全く無いわけでは無いだろうが、本州に比べれば多人種を受け入れる土地柄だと思う。基は先人たちが、本州各地から移住して出来上がった集落から発展して今がある訳で、外国人さえも受け入れる寛大さは、本州よりは近代的な感覚にさえ思える。外国人にも北海道は魅力的に見える一面には、そのような差別を感じないからかも知れない。通勤途中の或る官舎では職人が立派な囲いを作っている。「隣の家に囲いが出来たって?」「へぇ~?」
隣は何をする人ぞ。
インドでも大富豪は高層の住宅の上階に住み、下層階には軍隊のような武装警備員が常駐しているらしい。貯えた富を奪われないかと厳重な警戒らしい。僕たち庶民の建売は木造で、簡単に壊される構造だが泥棒もわきまえているのか貧乏人の家には興味を示さない。昔はコンクリート住宅を夢見ていたが、木造で正解だったのかも知れない。どんな国でも、同じ人種間でも貧富の差は激しく、格差から来る差別も無くならない。札幌にだって若くして富豪らしき人は何人も居る。何を生業としているのかは知らないが、広いガレージには珍しい高級輸入車が10台も有ったりするが、こう言う人達同士では交流があっても、一般人とは余り交わらないので目立たない。勿論塀に囲まれ、厳重な警備システムを取り入れた、かつて夢見た高級コンクリート住宅だ。
心の中の「塀」。
差別が争いの基になって、今も世界各地で残忍な殺りくが繰り返されている。先日の福祉施設の19人殺傷事件も犯人の中に隠されていた偏見が実行に移されたようだ。テロも同じで、人は皆んな心の中に「塀」があって、他人に知られたくない何かを囲い隠しているのだろう。「塀」さえ無ければ、未然に防げた事ばかりだ。