昭和36年、今から56年前に、物理学者で俳人・教養人の寺田寅彦のエセイ『科学者とあたま』と題して、頭のいい人悪い人の話を書いていて、結論はひとりの中にどちらの要素も必要ですよと説いているが、なかなかこの両面を持ってる人は稀なような気もする。

 

『いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできるかわりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっと後から遅れてきてわけもなくその大事な宝物を拾っていく場合がある。頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。』

 

少し長くなったが、なかなかいい文章なので引用した次第だ。さらに『頭のよい人は、余りに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合には”、自然のほうが間違っている”かのように考える恐れがある。・・・・・これでは自然科学は自然の科学でなくなる。・・・頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめに決まってるような試みを一生懸命に続けている。・・・』

 

どの職場や学校にも、筆者自身にも身に覚えがある文章が続く。大脳の力を過信して失敗する人生、饒舌で言葉の回転の速い人間をたくさん見てきた。さらに『頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。・・・頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい』寺田寅彦はどちらかといえば頭の悪い人に同情的なところがいい。本人はもう少しでノーベル賞受賞を逃したくらいの人なのに。

 

たぶん、それは人文系の教養や夏目漱石との交友や孔子や老子、俳句作り、物理学以外に天文学・地質学・数学・ギリシャ哲学、さらに多言語を習得して、自分の知識をたえず絶対化することなく相対化する思考習慣が身についてるからだろうと思う。それにしても明治の知識人の漢文の素養、勉強の深さは凄い。そしてたくさんの人を育ててきた。

 

ここまで勉強しているから『頭のいい、年少気鋭の科学者が科学者として立派な科学者でも時として陥る一つの錯覚がある。それは科学が、人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子のいわゆる”格物”の学であって”致知”の一部に過ぎない。認識の人であるためには、ウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋でも持つ必要がある。』

 

細かく分かれた専門分野の学問が、それぞれが仲間内で技術用語を駆使して(お前たちの素人にはわからないから口を出すな)といわんばかりの専門家の傲慢さがまかり通る今日、寺田寅彦の言葉の数々は、より新鮮味を帯びて筆者に迫る。『頭のいい』は狭く限定的な使われ方をして意味を初めてなすので、全人間的なものではありませんよという言葉に筆者も救われる思いがする。

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