ナポレオンを驚かせた沖縄の話。(2015年7月1日掲載)
表題の話は、約40年前の1978年刊・岩波新書・准陰生著の「読書こぼれ話」の66pに掲載されてるが、初めて知る人も多いと思うので紹介する。ちなみに岩波の「図書」という雑誌に1970年から1978年まで書かれたエセイが100本になりまとめたもの。(6月22日にも長谷川如是閑さんの引用をこの本からしている)。
皮肉家アイルランド人のスウィフトみたいな書き手だ。フランス人ならヴォルテール、日本のジャーナリストで言うと桐生悠々みたい。1817年8月イギリス海軍ライラ号のバジル・ホール館長が朝鮮半島西海岸、琉球諸島への調査航海の帰途、ナポレオンが流されたセントヘレナ島に寄港。ホールは、視察した沖縄という島には武器というものが一切ないことを話すと、理解に苦しんだナポレオンは「武器といっても大砲のことだろう。小銃くらいはあるのでは」「いや、それもありません。」「じゃ、投槍は」「それもありません」「弓矢や小刀くらいはあるだろう」「いや、それもありません」ナポレオンはワナワナ拳をふるわせながら叫んだ。「武器がなくて、いったい何で戦争をするのだ?」「いえ、戦争というものを全く知らないのです。内外ともに憂患というようなものは、ほとんど見られませんでした」。
ナポレオンは「太陽の下、そんな戦争をやらぬ民族などというものがあるものか」と答えたという。沖縄は16世紀、尚真王のとき、武器撤廃をやったり、1609年、島津に征服のあとは、一切の武器が完全に奪われたのは事実だ。約500年に及び、多少の小競り合いはあったにしろ、武器なき平和な島だったのである。それが沖縄戦で本国の人間楯になり、以来、大軍地基地の島、そして自衛隊の島になるとは、変わったと言えば変わった。ずいぶんひどい話ではある。
1972年が沖縄返還なので、エセイは6年後の執筆になる。20年前、亡くなった母が、「家族で沖縄旅行へ行ってくる」と言ったら「観光で行くところではないよ、鎮魂で行くのよ」と言われた。大阪で女学生だった母が空襲で北海道へ逃げ帰ってきた戦争の記憶が40年、50年経過しても残っている。
沖縄返還も密約だらけで、返還前より米軍が自由に日本本土にある基地まで含めて制空権をもらったようなもの、さらに基地の施設維持にお金までくれるというのだから笑いが止まらない。なんてお人好しの国だろうと。政治家や外務省の役人たちは、どこの国の利益のために給与をもらい働いているのか、基本の基本に還る日はまだまだ遠い。彼らの思い込み、対米従属し続けることの思考の「楽」さに陥っている。全く、マゾの世界に入ってる人たちが国を運営している。マゾヒストは弱い人間にはサディストになるので要注意だ。自立していかないと大人とはいえない。
*追記(2017年3月28日)大学時代、沖縄から来た留学生(当時は返還前だったから)がいたが、現在でも彼から来るメールや沖縄新報見本紙も送ってくる。米軍がいることでお金を儲ける不在地主(私有地を借地して基地に使ってる)、米軍で働く労働者と飲食業界。原発もそうだけれど住民の利害で必ず国はそれを利用して、住民を分断する。国家って一体何?『愛国ならすべて無罰』だという思想がはびこっている。『愛国なら他人を殺してもいい。この国から出て行けと叫んでも罪にならない。愛国ならどんな汚い野次でも、相手は非国民だから許される。愛国だから、愛国の学校や幼稚園を作っても許可される。』この思想はヨーロッパでもアメリカでも北朝鮮でも中国でもそして日本でも大手を振るってるように筆者には思える。隣の人に親切を。大きな声で叫ばない。熱狂に熱狂で返すとろくなことにならないのは歴史の教えるとおおり。
日本の周囲の防護策?。
武器を持たない「丸腰」の人は打たない西部劇でのガンマンのモラルに比べれば,現代は非道で,「誰に?」「何時?」攻撃されるか分からないとも言えるでしょう。攻撃用武器などは持てば持つほどエスカレートして,それが抑止力だと勘違いしてしまいますね。世界大戦参戦国の我が国,核被害国の我が国,そして敗戦国の我が国,原発事故被害国の我が国は,すべて学習済みの過去を繰り返さないためにも,丸腰になる勇気が必要なのでしょう。軍事費は万里の長城でも無いですが「防護柵」にでも使った方がいいのではないでしょうか。拉致問題が解決しない今日,これ以上の犠牲者を出さないためにも「防御策」としての防護柵くらいなら,今の防衛予算の比ではないと思いますね。たとえ,それが近代的な目に見えない赤外線センサーの柵にしても。トランプ大統領のメキシコ国境の壁のごとく国民の批判を受けるでしょうか?あくまで米軍基地の撤退が先決条件ですが。
代案を持って事を制す。
原発銀座の福井の若狭地方も,沖縄や三沢なども,それに関わる住民が居て,それを暮らしの糧として生きていれば,廃止や撤退に反対するのは当然でしょう。彼ら彼女らに代替案を示さずに,反対運動に加われと強制しても従わないでしょう。それどころか反発を招くだけですね。「代案を持って事を制す」事が解決につながる一番の近道ではないでしょうか。従って反対派も「代案を考えてお互い理解し合う事」が欠けていると思いませんか?。
占領地「日本」?。
口先だけの批判や反対は誰にでもできますね。では?「どうすれば一番良いのか?」の答えを持っていればいいのですが。地元や国民の声を聴いて最良の答えを見つけられればいいですね。仕掛けた戦争責任は我が国にあるとは言え,敗戦当時から70数年を経ても占領下同様の米軍の態度も許されませんね。政治も戦犯の孫などが多く,右傾化が目立っています。巷ではスパルタ教育の幼稚園なども復活してきました。それも倍率が高いと言われていますね。事の真相は子育てが面倒で,金さえ払えばと,他人に丸投げの親の教育に過ぎませんが,当の子供たちの将来を考えれば,心配にもなります。ゆとり教育とは言いませんが,もっと自由な発想を育む教育も必要ではないのでしょうか。
鎮魂。
沖縄もそうですが,あなたの母上の言う通りですね。「鎮魂」の気持ちのかけらも無く観光に行く時代です。ハワイのパールハーバーだってグアムだって,お金を払えば何でもOKとばかりに観光するのは反対ですね。奥尻島や東北なども同じです。
近くて
かつて奥尻島へは取材で数日宿泊しました。役場のライトバンを貸していただき,島の隅々を撮影しました。フェリー乗り場の食堂の「うに丼」には驚きました。民宿の親父さんウニずくし料理にも感動しました。しかし,その翌年にあの大津波が島を襲ったのでした。信じたくはないですが,ご親切にしていただいた島の方々はみんな家ごと津波に飲まれてしまいました。あの時の笑顔が今でも脳裏に残っています。あれ以来,奥尻島には行けなくなりました。あまりにも辛いからです。こんど島に行く時は鎮魂の気持ちで訪れるつもりでいますが,でも,それがいつなのか自分でも分かりません。
近くて,遠い島。
かつて奥尻島へは取材で数日宿泊しました。役場のライトバンを貸していただき,島の隅々を撮影しました。フェリー乗り場の食堂の「うに丼」には驚きました。民宿の親父さんウニずくし料理にも感動しました。しかし,その翌年にあの大津波が島を襲ったのでした。信じたくはないですが,ご親切にしていただいた島の方々はみんな家ごと津波に飲まれてしまいました。あの時の笑顔が今でも脳裏に残っています。あれ以来,奥尻島には行けなくなりました。あまりにも辛いからです。こんど島に行く時は鎮魂の気持ちで訪れるつもりでいますが,でも,それがいつなのか自分でも分かりません。