子供を育てる畑に、栄養は十分か?
作詞家で平成19年8月に死去した、高校野球熱烈ファンの阿久悠さん『清らかな厭世』(言葉を失くした日本人)を読みだした。ある時期に、日本の高校生とアメリカ、韓国、中国の世代と学校観、社会観、家族観を比較。その結果日本の高校生はどこの国よりも非消極的で夢も少なく、社会貢献志向も少ない。高校生は『今』と『自分』以外は自分の思考の軸にない結論になっていて、刹那的な人生観である。
子育てを作物に例えると、促成栽培は無理で、比ゆ的に、畑に撒かれた種が成長するには栄養と長い時間が必要、さらに土を休ませてからゆっくり育てないと茎もカラカラになる。ヒョロヒョロ伸びるだろうけど、『明日にでも枯れてしまう』。しかし、これは高校生の問題ではなくて、彼らが生きる『家庭内』『地域社会』『親戚関係ありやなしや』『学校内』『孤独の時間(自分の成長に必要)の有無』。高校生を囲む言語環境と考えるとわかりやすいかもしれない。大人が子供に言葉を発することに億劫になっているのではというのが阿久さんの見立てである。特に父親かもしれない、自分を反省して。大人の言葉から子どもたちは言葉を学ぶからである。
どのように饒舌に語彙数を積み重ねても、心を通過しないものは言葉とは呼ばない。政治家が悪ければ政治家を取り換えればいい、経済が悪ければ経営者を替えればいい。代役がきく。ただし、僕らの民族の子供は替えられない。そのために、畑である家庭や社会に栄養をたっぷり撒いておかないと将来、大変なことになる。
『今』と『自分』と『損得』とだけが『生きる軸』にしてしまった親を含めて大人の責任も大きい。親の見栄で子供を育てたことに対する彼らからの往信が復讐なのかもしれない。子ども自身の成長を阻害している母親のいかに多いことか?日本社会の殺人事件の50%以上は尊属殺人である。砂漠のような水のないカラカラした土壌(家庭)で、乾いた会話が繰り返されたのであろうか?
それにしても、昨今の政治家で感動する言葉を吐く人がいなくなった。感性が枯れているのか、日本語の語彙が少ないのか、教養やユーモアの訓練を受けていないのか。これは彼らに限ったことでもでなくて、外国語を喋らなくてもいいから、情意を尽くした普通の日常言語を話して欲しいものである。余りに短い・断定的な物言いがまかり通ってる気がする。私たちにできることは、できるだけ言葉豊かな人たちとたくさん接して彼らから学び続けるほかはない。それが書物の世界であっても。
大人が教えた「汚い言葉」。
豊田議員の暴言が小学校で流行っている。浪花のエリカ様だか何だか知らないがサッカーファンの間でツイッター炎上。前防衛相を引きずり下ろした激しい口調の現稲田防衛相も今ではすっかり大ウソつきになってしまった。女性の台頭は非常に結構だが,美しい女性言葉はどこに行ってしまったのか?まるでヤクザの使う言葉を平気で吐く女性たち。一方,子供たちはアニメやゲームの中でヤクザ言葉を刷り込まれている。小学校でも中学校でも「いじめ」や「自殺」が多発しているが,すべて原因は「汚い言葉」の応酬に端を発している。子供たちがスマホを操り,ラインで情報交換する時代だが「ウザイ」「死ね」「キモイ」「クサイ」などが毎日普通に会話されているのが現実だ。子供たちは,こんな環境の中で必死に自分を守りながら生きているのだろう。
離婚に慣れてしまった社会。
どこの家庭にも事情や問題があるものです。夢に見た夫婦生活も理想通りには行きません。一度歯車が狂うと軌道修正はなかなかできません。そんな家庭環境下の子供の心にも大きな傷となって生涯背負っていくことにもなります。それだけ無責任な親たちが増えたとも言えるでしょう。これには不景気な社会構造ゆえに共働きを強いられ,その結果,主婦の労働者が増え,家庭不和も手伝って勤務先での不倫などから離婚にまで発展するケースが大変多くなりました。子供の事も忘れて,都合よく自分の幸せだけを求める安易な親が増えているのです。シングルマザーとともにシングルファザーも増えているのが現状で,両親の愛情をたっぷり受けて育つ子供たちも少なくなっています。この子たちが親になる世代には一体どうなるのでしょう。
叱らない大人たち。
僕たちの幼少期には,他人の大人たちも,学校の教師たちも親同然の接し方をしてくれました。悪ガキの僕たちは,親以外の他人にもよく叱られました。今では学校の先生でさえも学童や生徒に気を使って接しています。その理由は親からの苦情や教育委員会からの指導です。子供たちは守られ過ぎていて我ままに育っています。例え,子供たちが原因でのトラブルや,子供に何かあればすべて大人の責任と言う訳です。保身も大事かとは思いますが,自分の正しい考えを通す大人や,真の教育者と思える教師が沢山現れて欲しいですね。