知人で手芸店を経営している人と、おしゃべりをする機会があった。彼の高校の同級生が多く首都圏で上場企業で定年を迎えた人や弁護士や医者たちらしい。熟年を期に離婚も多く、また最後の住み家を故郷の札幌に戻りたいと明言する人もいる。そして彼の店に顔を出すらしい。そのとき『お前はいいよなあ、明るい女性が毎日来て、楽しそうで』と異口同音にいわれるんだと苦笑していた。考えてみれば医者を必要とする人は健康に不安を抱えているのだし、弁護士も顧客が自分では解決できない問題を相談に来るので『決して、明るく楽しく来るお客ではないなあ』と筆者も納得する。医者と弁護士にはお世話にならないで生涯を終えたいのは理想とは思うが、虫歯や怪我をはじめ、学校での健康診断と医師とのつながりは消えない。最後は医師の死亡診断書も必要だし。最小限の医療で最後を迎えたい気持ちがあるが。いろいろ医療費を使ってしまった。


『お前はいいよな、明るい人と接して』と言う場合、彼女たちの持つ醸す雰囲気は、筆者から見ても生活感が漂わない、どこか日常を突き抜けたお洒落な女性たちだ。しかし『生活感が漂う人』と『生活感が漂わない人』って筆者は軽く言うけど、どこがどう違うのだろうか?暮らしが大変なのは共通項として全員が持ってるにせよ、趣味を自分の世界にしていると『生活感』から飛翔できるのかもしれない。


同世代の知人が、老健施設の受付をしている。メールで『最近、寒くなると亡くなる人が多い』『若い人が来て働くと思ったらすぐに辞めていく。厳しい仕事の割りに報われない待遇』『敬老の日だけはやたら子供たちが来るけど、過ぎたら閑古鳥』。この仕事も『明るくていいよなあ』うらやましがられる仕事ではないが、家族や本人にとってはなくてはならない人たちだ。


しかし、仕事で果たしてうらやましがられる仕事ってあるのだろうか?ともふと考える。筆者の前職の仕事は給与はまあまあだったが、あれこれ人事で云々かんぬんで『急性心筋梗塞で死線をさ迷ったり、スポンサーが2人自殺したり、倒産の憂き目にあって何通も始末書を書いたりした』。中から見るのと外から見るのでは大違いだ。


最初に紹介した手芸店も、場所が中心部にあり、住んでもいるから莫大な税金支払いを受けるといっていた。先祖代々、積み上げられた資産があるからできることで、普通なら不動産を売却して山の手でも引っ越すところ。そういう見えない努力があるから、そこへ『明るい女性がやってくるスペースを長年確保できるのだと』思いたい。いまのお店、今の自分、今の暮らし、今の満足、今の不平不満、政治や社会環境の是非も大事だけど、現在の自分にすべて現れているのではないだろうか。人相や態度や言葉遣いまで。


明るい人と私もたくさん接触したいが、『自身の健康』『親の介護』『兄弟の病気』『子供の転職と失業』『年金先細り』。今を生きてる人はたくさんの荷物を背負っているから、せめて1分でも2分でも大笑いをして瞬間的に忘れたい。

  1. 苦あれば苦あり。

    仕事は苦しい事の方がはるかに多いですね。楽しいと感じるのは仕事がたくさん入った時くらいで,その後作業はまるで地獄ですね。仕事先には明るい人もいれば,苦言ばかりの人もいますね。他人の気持ちまで深く考えすぎると息苦しいですから,流していますが,自分はできる限り明るく振舞ってはいます。

  2. 美術館の前を通ると,平日でもそれなりの人たちが,往来しています。年配女性がはるかに多いです。今はゴッホ展ですが,絵を描く人たちなのでしょうか?それとも美術鑑賞を日常のルーティーンにしているのでしょうか。どこか余裕のある人たちです。たぶんですが,職業としての仕事はしていないのでしょうね。遊ぶと言えば顰蹙を買うかもしれませんが,遊んで暮らせるなんて羨ましいですね。

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です