道路建設の次は、黒いダイヤ(石炭)の産出である。九州や常磐もそうだが爆発事故で犠牲になった人も多い。石炭は機関車を牽引するエネルギー、発電所の燃料、家庭の暖房として日本経済を盛り立てた。

『北海道20世紀の事件事故』という本が北海道新聞社から2017年6月に出版された。

サツ回りの現場からからと副題が付いている。年表の中から、炭鉱事故についてピック

アップします。1900年から1985年まで。1982年、北炭夕張新鉱閉山。

1901年(明治34年)夕張炭鉱第一斜抗でガス爆発、19人死亡。

1903年        幌内炭鉱堅抗でガス爆発、12人死亡。

1904年 3月     空知炭鉱神威抗でガス爆発、13人死亡。

      7月    夕張炭鉱第一斜抗でガス爆発、18人死亡。

1905年        夕張炭鉱第二斜抗でガス爆発、36人死亡。 (日露戦争始まる)

1908年        新夕張炭鉱でガス爆発、91人死亡。

1911年 2月    新夕張炭鉱でガス爆発、16人死亡。

      3月     新夕張炭鉱でガス爆発、16人死亡。

1912年(明治45年・大正元年) 4月 夕張炭鉱第二斜抗でガス爆発、269人死亡。

  12月       夕張炭鉱第二斜抗でガス爆発、216人死亡。(英国船タイタニック号沈没)

1913年        夕張炭鉱で電動機から発火、坑道を密閉して鉱夫53人死亡。

1914年 10月   夕張炭鉱第一斜抗でガス 爆発、16人死亡。

11月    夕張炭鉱若鍋抗でガス爆発、422人死亡。 (12月福岡県方城炭鉱でガス爆発、687人死亡)

1917年       上歌志内炭鉱でガス爆発、12人死亡。

1918年       夕張炭鉱でガス爆発、12人死亡。     (シベリア出兵)

1920人 1月    新夕張炭鉱でガス爆発、36人死亡。

      2月     空知炭鉱神威抗でガス爆発、27人死亡。

      6月    夕張炭鉱北上抗でガス爆発、209人死亡。

1923年9月1日  関東大震災 死者行方不明14万人。

1924年       上歌志内抗でガス爆発、76人死亡。

1927年       三菱美唄炭鉱堅抗でガス爆発、39人死亡。

1929年       上歌志内炭鉱でガス爆発、70人死亡。(ニューヨーク株式大暴落・世界大不     況)

1931年  9月18日 (満州事変)

1932年       空知炭鉱舞鶴抗でガス爆発、57人死亡。

1935年       勇別茂尻炭鉱でガス爆発、95人死亡。

1938年      夕張炭鉱天竜抗でガス爆発、161人死亡。

1940年      真谷地炭鉱でガス爆発、51人死亡。(日独伊三国同盟

1941年 3月   三菱美唄炭鉱でガス爆発、177人死亡。

      4月   弥生炭鉱でガス爆発、30人死亡。

1942年      三井砂川炭鉱でガス爆発、42人死亡。(ミッドウェー海戦

1944年      三菱美唄炭鉱堅抗でガス爆発、109人死亡。(サイパン島守備隊3万人全滅

1946年      雨竜炭鉱で炭じん爆発、16人死亡。(日本国憲法発布・5月3日)

1954年      太平洋炭鉱でガス爆発、死者39人。

1955年      勇別茂尻抗でガス爆発、60人死亡。

1959年  2月  住友歌志内抗でガス爆発、14人死亡。

       5月  歌志内住友赤平抗でガス突出、5人中毒死。

1960年  1月  歌志内北空知炭鉱でガス爆発、5人死亡。

       12月  歌志内北空知鉱で崩落事故、4人死亡。

1965年      北炭夕張鉱でガス爆発、62人死亡。

1966年  3月  歌志内空知炭鉱でガス爆発、12人死亡。

      11月  三笠市の住友奔別鉱でガス爆発、16人死亡。

1968年 1月  美唄炭鉱でガス爆発、16人死亡。

       7月   北炭夕張平和鉱でガス爆発、31人閉じ込め、遺体で9人搬入、残りは構内を水没させる。

      9月   北炭夕張鉱で崩落事故、8人死亡。

1969年 4月   赤平市茂尻鉱でガス爆発、19人死亡。

      5月   歌志内鉱でガス突出事故、17人死亡。

1970年 12月 三井砂川鉱でガス爆発、19人死亡。(日航機よど号ハイジャック事件・三島由紀夫自決)

1971年     住友歌志内鉱でガス突出事故、30人死亡。

1972年     石狩炭鉱でガス爆発、31人死亡。(沖縄復帰、横井庄一保護・連合赤軍軽井沢で交戦)

1974年    三井砂川鉱でガス爆発、15人死亡。

1975年    北炭幌内鉱でガス爆発、11人死亡、13人の行方不明いたが構内を水没させる。

1977年    三井芦別鉱で第二抗でガス爆発、25人死亡。(有珠山噴火

1979年    三菱大夕張鉱でガス爆発、16人死亡。

1981年    北炭夕張新抗でガス突出事故、死者・行方不明93人。戦後、北海道で最大の大惨事。

1982年    北炭夕張新鉱、交渉妥結で閉山。

1985年    三菱大夕張鉱でガス爆発、62人死亡。(日航ジャンボ機、群馬県の山中に墜落520人死亡、4人生存)

  1. 北陸は福井の片田舎の駅は操車場があって、この先の大阪に向かってスイッチバックの急坂を三重連のSLのために石炭や水を補給していました。僕は絵を描きに構内に入って、知り合いの機関手のおじさんの手伝いをしました。SLの窯に石炭をくべるのです。後ろの貯蔵庫からショベルで石炭をすくって前のペダルを踏んで窯の蓋を開けて投げ込みます。窯の蓋の開閉も警笛も、もちろん動力もすべて石炭を燃やして水を沸かした蒸気の圧力で賄います。石炭の火力がエネルギーでした。北海道の炭鉱のものか?九州の炭鉱のものか知りませんでしたが、とにかく貨車で石炭がどんどん運ばれて来て山積みになって居ました。しかし大切なエネルギーとして時代を発展させ活躍した石炭も、多くの犠牲のもとに生産されていたわけですね。子供の頃は炭鉱も知らず、北海道に移住して初めて夕張の友人からこれまでの事故の話など炭鉱のを聞きました。今では石炭も海外炭を輸入していますね。ベトナムなどの炭鉱に北海道から技術指導に行っているようです。

  2. 石炭の街は今?

    石炭産業が斜陽になって、筑豊などから集団就職の少女たちが、毎年沢山福井の繊維工場に来て女工さんをしていました。九州弁で話す少女たちは会社に独身寮で暮らして実家へ仕送りをしていました。あの当時から半世紀もたった今、彼女たちはもう居ないと思いますが、炭鉱で生計を立てていた地方も今では近代化されたのでしょうか。

  3. 夕張応援キャンペーン。

    命を張って死と隣り合わせの仕事をしている関係からでしょうか、斜陽になった後でも、夕張の人たちは炭住に住みながらも大風呂敷で気前も良かったですね。メロンを沢山いただいたり、買い物も箱買いしていました。鉱山や炭鉱街の人たちの派手な一面を見ました。その後、夕張を応援するキャンペーンなど今も続いているのでしょうか。

  4. 豚屋です

    ご無沙汰いたしております。
    夕張や地元に元炭鉱があり、林業も盛んだった地に住んでいて、なおかつ建設業からの転業者として思うこと・・・
    北海道はすべて国策による産業に依存してきたということです。
    国のエネルギーを支えてきた石炭、戦後復興を支えてきた木材供給地としての林業、そして、北海道開拓から、国策が海外輸入品に負け始め石炭産業・林業社を国が公共事業へ導きながらも、それすらもう限界となってしまいました。

    もう国には頼らない。
    そんな決意で、転業したのをふと思い出します。

    この春に、HACCPを取得しました。
    その発表会を帯広でさせられましたが、そこで最後に言ったのは、HACCPは何一つ、会社や生産物の品質を担保してない。
    ISOを持っている、世界に冠たる自動車会社が法に反する検査をし、燃費データや排ガスデータの改ざん、大手ゼネコンが杭の長さケチってマンション傾き、日本の老舗の鉄鋼会社が製品の規格偽って、世界一のエアバックメーカーが一瞬にして破産に追いやられた・・・
    ISOもHACCPも消費者にはまったく関係のない資格であり、すべては正直に、助けてもらってありがとう。間違ったらごめんなさい。

    それが信用と信頼を築く唯一の方法ではないかと講和してきましたが、思いのほか反響ありました。

    もういい加減、アメリカの作った台本に従い、自国民に我慢を強いる仕事しかしない政治家や官僚には辞めてもらいたい・・・
    そんな気持ちでおります。

  5. 住友歌志内炭鉱

    はじめまして。
    歌志内市中村地区(住友歌志内炭鉱の所在場所)の出身者です。事故年表の記載に謝りがありますので、指摘させて頂きます。

    1971年7月17日 住友歌志内炭鉱で発生したガス突出・炭層崩落事故の死亡者数は20名ではなく、正しくは30名です。

  6. 昨年、今年はコロナ禍で外出がままならず、旅行も控えている者です。
    来年に期待して、久し振りに北海道を目指そうと考えています。
    私は茨城県在住者で、北海道は数度行きましたので、次回は幾つかのキーワードを中心に回ろうと考えました。
    例えば、蝦夷、アイヌ、和人、炭鉱、縄文時代遺跡などなどです。
    今夜、炭鉱を検索して、炭鉱事故の多さに目を見張っています。
    私は昭和19年生まれですので、戦後の生活に石炭は身近なものでした。列車は汽車であり、動力源に石炭は必需品でしたから。
    その産地は北海道も常磐も九州も幾度かの落盤事故ニュースはラジオ、新聞で承知はしていました。
    が、北海道の明治以降の炭鉱事故の多さにびっくりしています。
    先年夕張市石炭博物館を訪ねたのですが、土曜日であったにもかかわらず休館でがっかりしました。
    現北海道知事が市長をされていた時で、経費節減のあおりかと落胆したのでした。
    これからじっくり読ませていただきます。
    ありがとうございます。

    • ぜひ北海道へいらしてください。義理の姉が石岡に住んでいましたが一昨年亡くなりました。縄文の遺跡や文物はあちこちあります。まず、野幌にある北海道博物館から始めて、ここには地質年代記からアイヌはもちろん、どこの都道府県からやってきたかとか北海道の通史が絵的に見れます。開拓の村には馬車も走っていて、明治時代の建物も見学できます。私も少年のころ、炭鉱爆発のニュースに身近に接触してました。残酷なのは、危険な箇所にいるので水でうずめてしまったことが何度もありました。いまも遺体が地底深く眠っています。福岡の田川市にも炭鉱風景を描いた画家がいますが、猛烈に暑い中での労働です。いつ死んでも子供が困らないよう「朋子制度」があります。死んだら2番目の父親になってもらい育ててもらう制度です。札幌にも産炭地から来た市民がたくさんいますが、郷土のつながりが強くて公私とも助け合って暮らす人が多いのも産炭地での暮らし方を都会に持ってきたといえるかもしれません。北海道新聞社の発行でたくさん本が出ています。アイヌ関連では瀬川拓郎さんの本が読みやすいです。

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