『黄金の島』・北海道。パナマ文書。

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オルテリウス1589 太平洋図の日本列島 上が北海道

 

北海道は何度もゴールドラッシュに沸いた島であることは、道民にも歴史の本の中にもあまり書かれていない。19世紀初頭の数字で、アイヌの総人口が24000人のとき、金堀利人口は3万人を超えていた。そのずっと前、松前藩は1669年日高アイヌのシャクシャインとの戦いに勝った。そのアイヌの中に和人も多数参戦した。砂金採りの和人たちである。

北海道を中央に走る日高山系(地質学的に神居古潭変成帯)は、道内でも有数の砂金の産地。今でも、沙流川(シシャモ取りで有名な鵡川で太平洋に出る)で、札幌から砂金採りツアもあるくらいだ。12世紀、奥州藤原氏(1087年~1189年)の莫大な財産は北上山系の金に負うところが大きいが、実は中尊寺金色堂の金箔を分析すると北海道の日高の砂金が混じっていた。

当時、奥州藤原氏の莫大な財力は金は当然として、オオワシの羽、エゾシカの毛皮も相当量あったが、日高厚真町から藤原氏以外使用しない常滑焼が出土した。河床が砂より岩の方が砂金が多く取りやすいので、川の上流で採取する方が効率的だ。ここへ相当数の藤原氏が砂金採りのために、移住している形跡がある。もちろんそこはアイヌが住んでいる居住区であるが。『黄金島』(ジパング)は北海道かもしれない。

金を取るために太平洋アイヌと共同で仕事をしていた。その証拠に1126年、中尊寺大伽藍の落成式に『粛慎(しゅくしん)・悒婁(ゆうろう)』と呼ばれる人たちが招かれている。彼らはサハリンから大陸沿海州に住む集団である。アイヌは11世紀にはサハリンへ進出しているから、彼等と奥州藤原氏の間でたくさんの交易をおこなっている可能性がある。

1643年、オランダ東インド会社にフリースという人がいて北海道・千島・サハリンを訪ねている。16世紀までにヨーロッパでは日本あるいは日本近海に伝説上の金・銀島があると考えられていたので、それを探査に来たのである。イギリスやオランダ人が何人も日本に来ても見つからず、もっと北東方向にあるのではと考えられたからである。上の地図が1589年だからフリースはこの地図を見た可能性も高い。isla de plata(銀の島)。イギリス東インド会社の司令官セリーヌの記事でも『アイヌが砂金でコメを買っている』という1613年の記録がある。マルコポーロ(1254年~1324年)が『東方見聞録』で書いた黄金の国ジパングは、ひょっとして『北海道』のことを表現している可能性もある。

なぜなら黄金の国伝説は、奥州藤原政権が中国南宋への貿易支払いに金を大量に使ったゆえに、そこからヨーロッパへ広がって『黄金の国』ということになった。北上山系の金があるとはいえ、藤原一族はさらに大量の金を求めてアイヌとの共同で砂金を取りに北海道へ渡り、持ち帰ったからである。

してみれば、アイヌの働きが『黄金の国・ジパング』を広めたという見方も成り立つのではないだろうか。

とはいえ、スペインにしろベネチアにしても『金』があればどこへでも行き、略奪する文化・文明の行動様式(インカ帝国の崩壊)が16世紀から今日まで(ときには原油になったりして)続いている。日本の幕藩体制でも金銀の交換比率をごまかされて、金を大量に欧米へ流したことを考えると、『パナマ文書』で税金疎開地のケイマン諸島のタックスヘイブンで世界のお金を集めるやり方は、鉱物の『金』がペーパーの『金』に変わってるだけと思えないだろうか?とんでもないお金が海を渡って留め置かれるか、投資に使われている。

参考文献『アイヌ学入門』(講談社現代新書 瀬川拓郎著)この本は名著で物の見方が相当変わります

  1. 一攫千金を夢見る男。

    手稲金山などの地名は金鉱の名残でしょうね。こんな身近なところでさえ金鉱があったとすれば,道内には他にもかなり有るのでしょうね。佐渡は有名ですが北海道は佐渡に比べれば面積も広大ですから金の鉱脈も相当な量ではないでしょうか。今でも採掘すればあるのでしょうが,余り聞きませんね。むしろ恐竜の骨の化石発掘などの方が盛んですね。僕は金の鉱脈探しはムリですが,手身近なところで毎週抽選のロトで一一攫千金を夢見ています。千円で一等は数億円ですから,元は取れそうですが,意外と難しいですね。

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