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社会不安になると、跋扈してくるのが宗教だ。エジプトでもアメンホテップ4世が、紀元前1375年頃これまでの偶像崇拝を禁止、世界で初めての一神教を強制し、偶像の破壊を全国で行った。この影響を色濃く受けてきたのが、エジプト人モーセだ。フロイトの身を削った遺作「モーセと一神教」に詳しい。17年間の短いアメンホテップ4世の統治が終わり、高官だったエジプト人モーセは行き所が無くなり、奴隷を引き連れてエジプトを出たのである。ユダヤ人を連れていったという説とアラブ人も多く含まれていた、いや、パレスチナに定住した人がユダヤ人になったという説があるくらい複雑だが、モーセはユダヤ人に殺された。モーセは言葉が不自由で(エジプト人であったから)石版に文字を書いたのも(十戒)、彼の話し言葉が不自由であったからだ。フロイトは凄い内容を自らユダヤ人でありながら書いている。死に物狂いの本である。自ら属する民族のタブーを抉り出している。当時、ユダヤ教も新興宗教。

 

したがって、ユダヤ教も色濃く、エジプトの一神教の要素を引き継いでいる。そこからユダヤ教徒のイエスが改革派(エッセネ派とサドカイ派とパリサイ派の3派のうちエッセネ派)として説教を始め、パウロが作ったのがキリスト教で、イエスは最後までユダヤ教徒であった。ローマの賢帝マルクス・アウレリウスはユダヤ教徒やキリスト教徒を、病的な狂信者であると思い、恐れていた。喜んで死んでいくなんて気持ち悪いものだ。しかし社会で差別されてきた層を中心に、キリスト教を信じる人が増えるにつれて、ローマ帝国は統治する上でキリスト教を政治的に利用するため、国教にしていった。アルプスの北側に住む多神教(先祖や自然崇拝)の人々こそいい迷惑であった。嫌々ながらキリスト教徒にローマからの命令でなったようなものなのだ。それが後のプロテスタントへ向かうという説もあるくらいだ。

 

その社会で差別され、貧困を強いられ、被害妄想の強い人たちが新宗教へ改宗していく。キリスト教も初めは偶像崇拝を禁止していた。絵も彫刻も。エジプトのアメンホテップ4世と同じ。これを正直に続けているのがいまのイスラム教。一神教の純粋性(抽象性)が高いだけに原理主義に陥りやすい。マホメットは、7世紀に隊商をしていて大儲けをした商人で、ある日、啓示を受けて、初めは自分たちの家族と部族だけの小さな団体だった。

 

マホメッドは、ユダヤ教徒もすぐに自分たちの宗教に改宗してくると思っていたが、そうはならなかった。イスラム教も7世紀では新興宗教。宗教は阿片だというマルクス主義も宗教かもしれません。社会性のない、科学主義者(社会への影響を考えないで研究だけしていれば生きていける・・という科学者)も宗教家に見えるときが筆者にはあります。宗教が(依存)という概念、(信念)という概念に基づいてその働きがあるなら、ほとんど生きてる人々は何らかの宗教性を帯びて生きてるのかもしれない、拝金教も含めて。

 

簡単ですが、一神教の流れを素描してみました。すべて現れてきたときは、新興宗教です。昨日書いた「イズムは敵を欲する」に宗教の改革を当てはめると「イズムは必ず、先行する理念や方法へ対抗する形で表れてくる。イズムは敵を必要としており」云々は、宗教及び宗教戦争(特に一神教同士の)の激しさ、古代から現代まで貫いてる。ペルシャのゾロアスター教や仏教やヒンズー教も一神教に平行して書ければよかったが、勉強不足でダメだ。松岡正剛さんの本にゾロアスター教についてわかりやすく書かれてあるから関心の向きはそちらへ。ミニ知識で東芝の電球を昔、「マツダランプ」と言ってたが、ゾロアスター教の光の神「アフラ・マズタ」から取った。スターウォーズの話も出てくる。闇の力から拝借したのがダースベーダーだ。

 

この文のベースはフロイト「モーセと一神教」(ちくま学芸文庫)岸田秀「一神教VS多神教」(朝日文庫)松岡正剛「17歳のための世界と日本の見方」(春秋社)阿刀田高「コーランを知っていますか」(新潮社)

  1. アン・フェア。

    まるで,今回の国会の解散後の動きにも似ていますね。人の心は猫の目のように揺れ動きますからね。信頼して〇〇教や〇〇党に身を置いても,また分裂して枝分かれして益々組織は増えるばかりですね。これも当然の事とも言えますが,十人十色で人それぞれの考え方や理解力や利害も大きく違うからでしょうね。同じ考えと思って身を寄せ合っても,必ずや先頭に立って個人の考えで扇動したりする人が現れますから,流される人や同調する人以外は,また離れてしまいますね。ただ,流される人たちや同調する人が多ければ多いほど勢力は強大になる訳で,扇動者の舵取り次第では,カルトや戦闘集団などとなって危険な組織と化す場合も数多く見てきましたね。太古の昔からの教訓が今も生かされず,相も変わらず,宗派の違いや思想の違いでのトラブルは絶える様子は全くありませんね。組織の数の力でねじ伏せるやり方は,まるで,弱肉強食の野生動物の世界そのものですね。スポーツならまだウエイト制があってフェアに戦えるのですが,世の中はアン・フェアな事が多すぎますね。負の歴史に学びたいものです。

  2. 核廃絶か?宗教戦争に終止符か?

    今も,世界不安(社会不安)な時代ですよね。島国日本では考えられない事態が世界各地で現実に起きている訳ですが,現代とは思えない難民の人たちは増える一方です。また核ミサイル問題でも国連の非力さが露呈していますね。まるで時代は逆行しているかのようです。こんな時こそ宗教に平和への説得力があればと思いますね。それには宗派間の壁を取り払って,宗派間の争いを先ず止めなければ行けませんね。どこの国にも数の違いはあれ,人々の心を動かせる根強い宗教が現実にある訳ですから,指導者たちのサミットの方が,今の国連よりも,世界への影響力を持てるかもしれません。宗教はともすれば偏見視されやすいですが,各宗派の最終目的が世界平和で一致すれば,こんなに心強いものはありませんね。この世に宗教が存在している以上,核廃絶も大切ですが,その前に宗教間の争いから止めなければ,真の平和への道筋は現れないでしょう。本来の宗教は血を流しあうものでは無いとはずですよ。歴史を変えたいですね。

  3. 武器よさらば。

    神仏がどのような形で信仰されてもいいと思いますね。また無信仰な人もいて当然だと思います。しかしここで既に信仰派と無信仰派が対立しそうですね。ましてや信仰派の中ではさらに宗派間の争いが生じていますね。宗教の歴史をたどれば最終的には同じところにたどり着くのでしょうが,長い歴史のなかで大きく変わってしまったと言うことですね。これも宗教を組織力として統治に利用されたからでしょう。国教として法で定められれば,宗教家も特別な待遇や地位を与えられたに違いありませんね。宗教が権力と結びつけば,否が応でも国民は従わなければならないでしょう。反抗すれば罰せられますからね。宗教に限らず,強制すればするほど抵抗勢力も台頭してきます。そしていつかは争う事になるのでしょう。宗派は当然あるものの,僕はキリスト教もイスラム教も仏教も皆んな一つの宗教だと思っています。人種も宗派の信仰も変える事は出来ないでしょうが,住めば都で,置かれた環境でた立場で違ってきますね。日本にも比叡山の僧兵なども居ましたし,戦中には強制的に僧侶も戦ったでしょうが,宗教の世界に武器は要りませんね。

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