『われわれは言葉を節することを、そろそろ知らなければならないのではないか』(橋本治)
選考委員の橋本治さんも故人になってしまった。
今日でブログが365本目、1年になりました。
2008年の小林秀雄賞に選ばれた多田富雄「寡黙なる巨人」の選考委員である橋本治の言葉で、養老孟司の「大言論」の中にあった。ぐさっときた。ブログが世の中に必要なのかどうか自分で検証をしないまま、毎日、文字を並べる作業をしている(はじめの頃は強迫観念も働きながら)。腰の据え方がふらついて書いているから、ぐさりときたのだ。さっそく「寡黙なる巨人」を図書館から借りてきて、いま読み終わった。
いつノーベル賞を受賞しても良かった世界の宝みたいな免疫学者が67歳のときに金沢で突然、脳梗塞に襲われ、言葉と行動を奪われ、舌の動きもできず、闇の世界へ突き落される。食べることもできず、飲むこともできず、意思表示もできず、自分はただの「糞便製造機」だと自嘲する。自死も頭をよぎるが、常に醒めた目で病状を見守る・看病する医師の奥さんを見て「私の命は私だけのものではないことを無言のうちに教えていた」。「何もしないでベッドに寝ているだけで、ものも食わずに(チューブで栄養)糞をためている。排泄するのも人工的にする。それでは文字通り糞便製造機になってしまったようなものだ」。
この本は彼の日記である。相手の言葉は理解できる、筆記はできるところからワープロを友人から送られ、教えられ、リハビリを繰り返して生還してくる。「あの日を境にしてすべてが変わってしまった。私の人生も、生きる目的も、喜びも、悲しみも、みんなその前とは違ってしまった」で始まる。養老孟司は「多田富雄の言葉は球麻痺による半身の麻痺という、当人が置かれた身体的な状況もあって、一語一語がまさに搾り出されたものだった。その文体の勁(つよ)さが心を打つ。別な表現をすれば、言語は身体から発しなければならないのである」と。世の中は知ったかぶりの身体から発せられない言葉の氾濫。
表題の「われわれはそろそろ言葉を節することを、知らなければならないのではないか」というのは、身体から発する大事な言葉が、雑語に埋もれてしまい、見えにくく、聞こえにくくなってきている社会になっていることを橋本治や養老孟司は言いたいのかもしれない。大脳も身体の一部であるから、左脳の言語野から繰り出される言葉の数々。果たして、それは本当にその人の言いたいこと、その人しか表現できない言葉たちなんだろうか?誰かの借り物(テレビや新聞記事、評論家、会社の上司の言葉など)でしかないのかもしれない。すべてが闇に入った時に、たった一人で、事態に立ち向かうときに、その人自身の本当の言葉が紡ぎだされる気がする。叫び声であっても。言葉の山を登山している心境に私はなる。
そのとき、多田さんの中でもう一人の巨人が立ち上がる。巨人が棲み始めて、彼を支える。彼が若い時代、文学少年、詩を目指していた。そのときの体験や経験が50年を経て蘇っているようにも読める本だ。中原中也、富永太郎、小林秀雄、江藤淳、アンリ・ベルグソン、三好達治、孔子、ランボーなど筆者より17歳年長ではあるけれど、若い時に養われた感性・教養が地獄の苦しみの中にあってもどこかで生きている、とにかく凄い書物であった。「身体から一語一語搾り出される言葉」とはこういう言葉たちを言うお手本。自分の書く言葉の軽さを思い知った読書だった。
坊主の孫。
病に倒れて、人は初めて自分と向き合うのでしょうね。それまでの環境や人間関係からも断たれ、病と闘う事に全身全霊を掛けなければいけないですからね。他人を気遣う事どころでは無くなり、孤独に耐える心構えが必要にもなりますね。全く声が出せない場合や、出せたとしても言葉も自ずと限られるのでしょうね。作家や研究者の方々は病床においても気丈にタイプライターやワープロやPCで活動を続けていらっしゃる場合もありますね。電動車いすを操作して街中を一人で移動して頑張っている人などを見かけるにつけ、今現在は健常な我々の方が、反対に勇気づけられたりしますね。
seto
2本の足で歩けることが奇跡です・・という世界に入ると、なってみなければわからないの世界です。あたりまえがあたりまえでなくなるわけですから。食べることすらままならなくなって。苦しい、苦しい世界に入ります。しかし、彼の病室にワイワイ同僚や子供たちや話せないにもかかわらずやってきて、それを拒まないところも凄い。歩行訓練リハビリのとき(ここでは東大教授の肩書きなんて何も意味をなさない、患者番号何番の多田さんだ)。
広告マン。
自分自身の言葉って一体?果たしてあるのだろうか?それともあったのだろうか?と考えさせられますね。仕事とはいえ、キャッチコピーやボディコピーを考える事も多い中で、知らず知らずの内に外部から吸収した言葉を乱用し過ぎていたりしていますね。最も私自身の言葉のキャッチコピーやボディコピーが受け入れられるような社会環境かどうか?も疑問ではありますが。仕事でも、顧客との会話など、何かにつけて欲張って多くを語り過ぎている事は間違いないでしょうね。ましてプレゼンテーションなどともなれば、力み過ぎて余計な尾ひれを付けて誇大妄想的な発表にも成り兼ねませんね。シンプルに的確に自分の言葉で表現できればいいですね。そして相手にも真実が伝われば。
seto
言葉を節約することを実際、実行してみると難しい。それは書いていてもそうで、ついつい説明的に成り過ぎたりします。削る作業が必要なのに追加に走っていきます。お笑い番組やバラエティーの影響もありますね。自分の言葉ってほんとうは、極限状態に入らないと出てこないことも考えられますが、入りたくありません。