自分の皮膚の外には出れない。
自分の皮膚の外には出れない。
我々は自分の皮膚に捕らわれている(ヴィトゲンシュタイン)
ヴィトゲンシュタイン哲学宗教日記(1931年2月5日付け)にぽつんと1行書かれてあった。「我々は自分の皮膚の中に捕らわれている。」人間の意識とか悩みとかすべて「自分から一度出て、外から自分を観察できたり、眺められたらどんなに楽になることだろう」と思ったことが筆者には何度かある。
彼はマルガリートという女性を愛していた。しかし、予感として彼女とは結婚はできないだろうと思っていた。「彼女が必要としているものは、何より強くそしてしっかりとした杭、彼女がどれだけ揺れようがじっと動かない杭なのかもしれない。そんな力を自分が持つようにあるのだろうか?そしてなくてはならない誠実さを」(1930年10月3日)。自信がなかった。「もしマルガリートを失うようなことがあれば、自分は〈内面で〉修道院に入らなければならないような感覚がある」(同年11月7日)
人間の皮膚は下から新陳代謝されてどんどん新しい皮膚が出てくる。古い皮膚はアカとなって捨てられる。肉体的にはそうであっても、自分の意識から自分が出れない。一度悩みの虫たちに捕まると、夢の中にまで追いかけてくる。「自分の皮膚の中で」の1行は、実は人間が皮膚(自意識)から脱皮できない存在として訴えられているようにも読める。
しかし、皮膚があるから個人は他人と区別されて、男女であれば官能的なタッチも成立するわけだ。タッチが終わると自分の皮膚だけに囲まれた肉体に戻る。人間ひとりひとりは、民族や国籍を超えて「自分の皮膚の中に捕らわれている」存在ともいえる。皮膚からみると平等な世界だ。
(閑話休題)アメリカの心理学者エドワード・ホールが、個人が個人として安心する距離を本人の周り45センチ以上とした。他人がこれ以上入ってくることは耐えられないのだと。相当なストレスを覚える。これはヨーロッパの個人主義の基本らしいのだが、それが本当だとしたら、首都圏はじめ満員の通勤電車は超異常な風景といえる。0センチから45センチは恋愛上の男女関係や親友の距離だから、痴漢が大発生するのもうなづける。
彼の思索は哲学的な営みを終わらせるために向かっていた。「もし私の名が死後も生き続けるなら、それは偉大な西洋哲学の終点としてのみである。あたかもアレキサンドリアの図書館を炎上させた者の名のごとくに」(1931年2月7日)。彼がノルウエーに住んだり、子供たちの教師になったり、ガーデナーになったり、向かっていった方向を考えると「大自然に自分を置いてみる。自分の皮膚を大自然に開放させる。そこが自分を照らす鏡になってくれる」から。
子どもは何を言い出すか、動きをするかわからない自然である。自然に身を置くと自分の皮膚と自然が一体化する。それが都会に住んだり、他人の中に住むと自分と他人を区別する一線ができる。子供も言葉の習得や学校の学びでどんどん自然が失われてゆく。
自然に身を置くとちっぽけな自分を感じる。自然との付き合いはむつかしい。赤ん坊の泣き声一つでオロオロする。人間界の最弱な絶対権力者が赤ん坊だ。すべて自分の思い通りにしようとする。快不快で生きる。自然から離れた親たちが叶うわけがない。
昔の少年。
大阪や東京で朝夕ラッシュを何度か経験しましたが、もう二度とごめんですね。女性への痴漢どころか、男の僕にオッサンがすり寄って来た時は膝蹴りしましたね。都会は住む所ではありません。と言いながら自分も、いつしかリトル東京のような札幌に住んでいますがね。
seto
満員は昔の銭湯に入ってる感覚ありますね。それよりひどいかも。しかし慣れると当たり前になるのでこわいですね。過密は人の心を荒廃させるものでもあるので、できるだけ広い空間で生きれればいいですね。
匿名
会議テーブルも45㎝幅が基本ですが、対面して座るには、実際は90㎝は必要ですね。嫌いなタバコの匂いや強烈なオーデコロンや口臭や加齢臭の悪臭や飛び交う唾など、人は自意識無しで、ドンドン周囲に迷惑をかけていますね。特に大声の人、オラがオラがと出しゃばる人の真ん前は要注意ですね。
seto
生々しい証言です。他人との距離は大事ですね。超えるとどうしようもない地点に行ってしまいます。仲の良い関係があっという間に憎しみに変わることもあります。怖いです。出しゃばりやため口は注意です。
坊主の孫。
生き物は全て、最初はカラに閉じ込められ、そこから生まれ、やがて自力で生き続けますね。でも成長過程で蟹や蝉や蛇の抜け殻のように脱皮することは出来ません。その代わりに意識改革の意味で脱サラしたり、離婚したり、移住したり、転職したりするのでしょう。過去の自分から脱皮する為に。