現代人は絆の肥満になっている。
〈孤独の価値〉森博嗣(もりひろし)幻冬舎新書 128pより
私の携帯には650件(人)の登録がある。その中で利用頻度の低い氏名は削除してもかまわいのだが、これがなかなか消せない。いつか来るかもしれないなどととりあえず繋がっていようとする自分がいる。これは年賀状についても言えることで、少なくしたとはいえまだまだ減らせることができるが思い切って減らせない。年賀状だけの関係なら切って(相手から切られても)構わないので、ことしは10枚減を目標にしている。129pには森さんは次のように書く。
つながりすぎの肥満が、身動きのできない思考や行動の原因になっていることに気づくべきである。ときどきは、断食でもしてダイエットした方が健康にも良い。つまり孤独になった方が健康的だし、思考や行動も軽やかになる、楽しさに飢えた状態が『孤独』なのだから、そこから『楽しさ』を求める生産的で上向きな力が湧き上がってくるのも、自然の摂理なのである。
自由な思考や自由な行動が知り合いの都合で振り回されていないかどうかと考えると、ひとりで行動や判断がされているように見えてそれは誰かと何々をしに行くということになってる行動であることも多い。絆の一番は家族とサラリーマンなら給与をもらうところと仲間たち、それを取り巻くほかの人たちだ。仕事したり、飲んだり、おしゃべりしたり、遊ぶ。学校時代の仲間もそうだし、自分の住む町の人たちも絆といえばいえる。しかし、書いたり、読んだりするときはひとりでするので『ひとりにしてくれ!』という気持ちになるのも確かだ。『現代人は絆の肥満になっている』とは大人(たいじん)の言葉かもしれない。
昔の少年。
以前はいつ頃まででしたか?決まった友達との3人で週末近くになれば喫茶店に集まって金曜の夜から道東方面にクルマで撮影に行っていました。戻るのは月曜の早朝。またある時はこれも違うグループ仲間と、毎晩麻雀、週末はゴルフに出かけていました。その後、夫々がいろいろと環境の変化で自然に離れて行き、二度と群れなくなりました。しかも群れる事を避けるようにさえなりました。年齢とともに。
seto
群れるのを避けるというのも自然ですね、せいぜい1対1程度で会いますが。
広告マン。
仕事先の関係との仕事以外のおつきあいはしません。仕事はしっかりやらせて頂きますが、接待などした事がありません。どの得意先でも、先方の社長さん方も、接待などを余り好まないかたっだのです。ですから、これまで仕事以外に、プライベート部分では深く関わって来ませんでした。
坊主の孫。
年賀状をやめて相当経ちます。一時は会社設立年に年賀状を作った事がありましたが、今では年賀メールさえも出していません。年始には挨拶には行きますが、多くは行けませんから、その時は仕事の発生時にメールで一言だけ年始ご挨拶はします。でも年賀状を貰って悪い気はしませんね。
seto
思いきらないと年賀状、だらだら出し続けるので、ことしはもっと減らさないといけない・・・そう思いました。
ホランペッター。
知人で毎年、年賀状を自作して200枚出していた人が居ます。年々少なくなっては居るそうですが、150枚以上にはなるそうです。写真編集して官製年賀状裏にカラープリントして、表書きは達筆で大胆な筆字です。貰った方々は、楽しみにしているようです。私は出さなくなりました。
seto
木版で干支を掘って年賀状を出してくる人がいました。もう10月から掘ってましたね。約100枚刷るんだと行事にしてました。会社の中では年賀状やりとりやめようと提唱した人なんですが。
坊主の孫。
LINEなどで沢山の人が繋がっていますね。フェースブックからは「知り合いかも?」とひっきりなしに繋げようとメールが届きます。でも、そんなに繋がる必要もないし、ましてや知り合いでも無い方と?どうやって知り合うのか?疑問ですね。世間話なのか、それとも恋愛感情なのか?。SNSで結婚に至る方々も多い世の中ですからね。一概に否定もできませんがね。
seto
ネットで結婚まで至るなんて信じられませんが、考えてみると私たちの親世代もお見合いですから似たようなものかもしれません。私の両親も見合いで母はいやいやだったみたいで、死ぬまでその影響は続いてました。初恋の人が忘れられないと父の死後、私は聞きました。彼は海軍で戦争中、死亡ですね。その思い出が彼女の孤独を癒していたのでしょう。絆と言いますが、もうそこにいない人との絆も隠れてあるのだと書きながら思い出したところです。