『病患はキリスト教徒の自然の状態である』(パスカル)
「病患はキリスト教徒の自然の状態である」(パスカル)
フランス文学の渡辺一夫さん著『寛容について』(筑摩197p)で(狂気について)の項目で冒頭に引用されている。パスカルの言葉で、数学者にして求神精神のパスカルがキリスト教徒自身の宗派抗争で殺しあう現場と世の中を生きていて述べた感想。1948年に書かれた『狂気について』から。
しかし、別に狂気はキリスト教徒の専売特許ではなくて、人間である以上、狂気と無縁で生きている人はいないぞと渡辺一夫さんは言いたいのだ。何かに夢中になっている精神状態は、傍から見たら、普通に『狂気に取りつかれている』ように見えるし、事実、狂気の中にいる。ブログを書く行為も他人が見たら『狂気の中に入っている』と思える。
正常と異常、普通と狂気の境は曖昧。ある観念(神や教えや思い込み)、ある人(偶像やカリスマ)、ゲーム、仕事(集中しているときの精神状態)、恋愛渦中、スポーツのイベントと応援風景などは全く関心のない人には異常や狂気に見えるのも本当だ。そうであれば、世の中は狂気のON/OFFが日常繰り返して起きているのが現実である。『天使になろうとして豚にならないよう』気をつけて生きましょう・・・というメッセージが渡辺一夫さんの本にはある。
狂気なくして文化やスポーツも野心も生まれないのだ。何度も見ていると、それが当たり前になってしまいやすい。16世紀ヨッロッパが大陸の人口増もあって、地球のあちらこちらへ物産を求めて植民地獲得へ乗り出し、航海へ出て行ったが、これも考えてみると狂気以外の何者でもない。
巻頭パスカルの言葉『病患はキリスト教徒の自然状態である』がリアリティを持って筆者には迫るのである。『平和とか安静とか正気とか一応好ましいものとしていますのに、この好ましいものが少し長く続きますと、これに飽きて憂鬱になったり倦怠を催したりします。そして再び次の(狂気)を求めるようになるらしいのです』(199p)。
現代世界は『退屈病』という名の病に冒されているともいえます。そしてそれで一儲けを企みます。そういえばパスカルの『パンセ』に『所詮、人間のしていることは、気の紛らわしに過ぎない』という名セリフがあったことを思い出した。なんだか、すべてが虚無の海に流れて行くようであるが、一面の真実を突いている。『ある人は(狂気)なしでは偉大な事業は成し遂げられない、と申す人々もおられます。私は、そうは思いません。(狂気)によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲とを伴います。真に偉大な事業は、(狂気)に捕らえられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地道になされるものです』(200p)
あらゆるスポーツがルールを含めてキリスト教世界で作られた人工イベントであることを考えると考え込んでしまう筆者である。最後に渡辺一夫さんの言葉・・
『我々が正気だとうぬぼれている生活でも、よく考えてみれば、大小の〈狂気〉の起伏の連続であり、〈狂気〉なくしては、生活は展開しないこともあるということは、奇妙なことです』(199p)
坊主の孫。
それぞれ個人の物の見方や考え方、あるいは置かれた環境で行動したり考えたりしますから、どれが正気でどれが狂気かとの判断も曖昧ですね。両極端な場合を除いて、白か黒か?でもなく、中間のグレーゾーンのグラディーション部分が殆どでしょう。ある人から見れば宗教への信心がキチガイ沙汰に見えても、本人にとっては大切な生きがいだったりしますから。生きる上で、これが正しいなどと言う生き方など、存在しないのかも知れません。皆んな疑問に思ったり、悩んだり、信じたり、冒険をしたりしながら結果が出るまで自身も、先のことなど分からずに歩んでいるのでしょうね。自分自身さえ分からないのですから、ましてや他人様の事など批判も出来ませんし、分かるはずが有りませんね。
seto
中間のグレーゾーンで生きているは名言ですね。グレーゾーンから外れて黒と白に断定したときに零れ落ちることが多いでしょう。福島原発で被災地に戻れる・戻れないのエリアが道路1本こちらとあちらで違うことがありました。大気から考えると線引きする必要がない。たとえば生活保護受給資格が200万として201万円はどうかという話にもつながります。グレーゾンはこれまで捨てられてきていますね。
昔の少年。
スポーツ選手には、宗教宗派を問わず、確かに信心する人が多いですね。闘い競う相手があり、しかも、本番の競技では誰も手助けなどしてくれない自分との闘いですから、神に助けを求めたり、感謝したりするのでしょうね。
seto
スポーツそのものが宗教だったとしたら?アテネの都市国家間で戦争が絶えず、妙案として出たのが、裸で(武器を携行せず)観衆の前で走ったり、戦ったりして競技場の中で仮の決着をつけるというもので、オリンピックの起源とされています。(この話も本当かどうかわかりませんが)。アテネやスパルタ、ミケーネやクレタなど周辺の国々が応援団と一緒にアテネにやってきたのですね。当然、赤ワインを飲みながら騒いだのでしょう。ローマになるとコロシウムで闘技場で奴隷と獣の戦い、奴隷VS奴隷で、市民は大喜びでした。いわゆるローマの政治家から見たら『市民が政権批判をしないよう、彼らにパン(生きる糧)とサーカス(娯楽で感動や興奮で大脳麻痺させる)を与えておけばいい』ということになりました。12世紀くらいは死刑の執行が町のド真ん中で(教会の横で)市民の見世物にもなりました。この習慣がフランス革命を超えて、市民の娯楽になってます。現代、イスラムのISが公開する殺人にもつながってる営みだと思うのですが、狂気はどこまでも続きます。この公開殺人は、時を超えてSNSにおいても他人を平気で貶める人権批判やスキャンダル(自分で確認せず、手抜きの)流しへとつながってる気もします。文明の利器を他人を不幸にすることに相変わらず、人間は使い続ける人たちがいるということです。
匿名
醜い殺戮の戦いがスポーツに変わったのなら、スポーツは平和に貢献した事になりますね。ただ、今回の東京オリンピックのような大イベントになると各方面の利害が絡んで、本来のスポーツ以外の動きが気になりますね。「オモテナシ」で誘致に成功したかのように見えたのも束の間。裏の動きばかりで「表無し」。
seto
ロスオリンピックがターニングポイントです。ロスは既存施設が多くて、設備投資が少なくて済み、黒字のオリンピックになりました。放映権料でもIOCは儲け、様々なスポンサーを付けて儲けました。商業オリンピックの開幕で、今日まで続いています。オリンピックの放映権は国内ではNHKが持ってました。夏と冬のオリンピック予算が8対2くらいに振り分けられて、国内のキー局はどの種目に幾らで買うとオファーを入れ決定していきます。それが電通がいろいろな政治力を発揮して(IOCにNHK時代より金を多く支払うことで同意)五輪の放映権を釣り上げて、元締めをしています。NHKも電通に屈したわけです。現在は電通安倍政権の時代ですね。大阪万博もパナソニックから販売促進費を巻き上げてイベント稼ぎに精を出す電通の仕業ですね。こういうプロセスを丁寧に報道するメディアは現在、月刊誌『選択』『紙爆弾』ときどき週刊誌。真実を書くと広告を止められて廃刊の憂き目に遭いますからね。テレビ局も同じ。電通がなくなればずいぶん風通しのいい日本になりそうです。芸能界を含めて。いずれそういうことに気づく人が増えてくると思いますよ。