日付が戻るけど、7月9日、私の退屈病を察したのか、お手伝いできそうな企業から会いたいオファーもあり、細かい労働条件について面接しに札幌へ。

農家の草取りアルバイトを2日間・6時間しただけで足・腰・太腿ダウン。情けない体力。無駄口聞かず、淡々と草取りをする元農民の70代には叶わない。日本の自然の美しさ・日本の景色は農民の手によって造られたという名言があるが、私の雑な草取りの後ろから再度、残した草を抜いていく姿に私は赤面。直線で約200mの黒豆の苗に生えた雑草を約3時間で終わらせる、農民は凄い。

草取りでこれだけの大変さがあるのに「こんなのより、ビニールハウスでする苗代づくりはこの何倍も疲れる」と言われた。狭いビニールハウスで小さな苗を熱気むんむんの中、作業をするのかな。体験していないからわからない。足腰の痛みが取れるまでに1週間がかかり、「もうだめだ」と思い、農家へ電話して「ご迷惑をおかけするから」と今後の仕事を断った。

毎日、食べるコメができるまでを北海道にいながら、風景として見ていた自分を恥ずかしく思った瞬間だった。広大な畑の中で感じる風も気持ちよかったが、札幌駅を降りて少し生暖かいビル街の風も久しぶりだ。「帰ってきたわ」。知り合いの元同業者に遭遇したり、台湾人から「ヨドバシ、ヨドバシ?」と聞かれ、指を指して教えたり、活気あるな。

しかし、この町は何を作っているのだろうか。消費するだけの街だな。いや、初音ミクを生んだわ。大泉洋を育てた。黒澤酉蔵(雪印の前身)がリヤカーでチーズや牛乳を夫婦で売って歩いた街だ。ロイズもあるし、石屋製菓も。中島みゆきも青春時代を過ごしていた。ソフト開発の会社も多いしね。官営開拓使ビールがあるではないか。サッポロビールだ。私が住んでいた地区の主婦がホップの摘み取りアルバイトをやっていた。麻も栽培・収穫していた。北東地区ではどでかい玉ねぎを作っているし、南区では果樹栽培も盛んだ。

しかし、何よりの宝は、私にとってお喋り相手が多い町であることだ。捕まった相手は迷惑だろうけど。利害を離れていつでも付き合ってくれる人は貴重だが、友人関係をキープし続けるには適度な小遣いが必要で、今度のアルバイトが少しでも私の後半生を実り多いものにする資金になればと思う次第である。私ごとのブログになってしまった。

  1. 札幌も郊外に行くとビニール紐で仕切られて貸し出された農地の「菜園」でせっせと働いている人達を見る。主にサラリーマン定年後の人達のようだ。意外だったのはラジオのFM局のまだ若い部長さんまでが休日に麦わら帽で「菜園」に行くのが楽しいと言っていた。マンション生活で土が恋しいらしい。僕は中学まで半農半林の田舎暮らしで田植えから田んぼの雑草取りで蛭にくっつかれたり、大根を引っこ抜いて川で洗ったり、荷車引きが小学校へ朝登校前のノルマだったり、重い生木の丸太を何本も背負って炭焼き窯に入れたり、椎茸のホダ木に菌を植えたり、干し柿を作ったりとあらゆる農・林業の手伝いをさせられた。サラリーマンの子達は自由に遊びまわるのを羨ましく、スキあらば逃げ出して一緒に悪さばかりして遊んだ。でもその直後には更にきついノルマの作業が与えられた。例えば春先に大きな田んぼ一枚の稲の株を長い柄の細い鍬で一つ一つ掘り起こす株打ち作業だ。父「一日かけてやっていいから」と。僕はしばらくして手のひらに豆を作って、田んぼの中で大の字になり空の雲の動きを見ながら眠ってしまい夕方ハッと目覚めて薄暗くなりかけた中で必死に株打ちをした。到底終わらないから家には帰れない。母が心配して連れに来たが父はそっぽ向いて無言だった。東京暮らしから疎開で田舎に戻った両親なので、きっと毎日の労働は過酷で疲れきっていたと思う。田舎では「菜園」を「しゃえん場」と呼んでいてトマトやキュウリや茄子の朝もぎは僕の仕事だった。こんな経験豊富なはずの僕なのに例え小さくても農地を借りて「菜園」をやろうなどと思った事はないし土が恋しいとも楽しいとも思えない。本当の農・林・漁業の大変さを子供ながらに、ちょっぴり体験済みだからだ。楽しかった思い出と言えば川や野山で遊んだ事ばかりだ。僕も元々「農民」としては落第のようだ。未だに「トラウマ」は消えそうにない。

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