誰かの不幸の上に成り立つ幸福。
誰かの不幸の上に成り立つ幸福。
60歳を超えていろいろな場面を思い出す。一番関心の強い『幸福』という言葉や瞬間的な喜びみたいなものの、背景を分析してみると自分の幸福感は誰かの不幸の上に成立しているのではと考えることがある。たとえば進学ひとつ考えればわかりやすい。その後の人生については問わない。倍率が1倍で全員合格させるならいい。大学なら1倍ということはないから、必ず不合格で泣く人が出てくる。
リクルートなら役員候補にでも選ばれなければ、35歳前後で正社員だろうと転職したりするものが多い。その後、起業したり、転職したりするが、成功の約束はない。会社の中でも、ある営業マンの失敗や病気で部長になったりケースも非常に多い。部長が幸福というわけではないが、瞬間的な幸福感は襲ってくるだろう。
兄の長女の結婚式に名古屋へ行ったとき、婿さんの友人代表が新郎の大学のサークル仲間の女性であった。悔しそうに挨拶していた。幸い、こういう感情に鈍い長女で何事も無く終わった。私の転職もたくさんの応募から1名採用枠で入社しているから、たくさんの希望者を蹴落としている。私の年齢で病気で伴侶を失う奥さんも多いから、周囲には気を使うようにしている。
それは、国もひとりの人間と考えれば、ある国の繁栄はどこかの国の犠牲や不幸で成り立っている。朝鮮戦争やベトナム戦争で大繁栄をしてきた日本経済。富士鉄室蘭(現新日鉄)に勤務の叔父は『朝鮮戦争のおかげで残業続きで、給与が上がる。戦争さまさま』と言っていた。サラ金問題が賑わしていた時代(いまも同じだ)アコムの店長をしていた近所の旦那は『もう金は要らないから休みが欲しい』と横浜ナンバーのアメ車に乗っていた。弱肉強食の社会・世界であるといえばそれまでである。サラ金で命を絶った人のことがどのくらい彼の脳裏を掠めたか?
しかし、人生は不思議なもので、笑いの無い大金持ちの邸宅に住む人がいる一方、狭い住宅に住みながらも笑いが絶えない家庭もある。億単位の現金を持ちながら(彼はB型肝炎保持者で生命保険に入れないので)、62歳で急性骨髄性白血病で1年半で死去した。骨髄バンクで同じ型の登録者は見つかったが、その人の親が『危ないから断りなさい』ということで移植は行われなかった。
古い話だが、大学の入学式で学長が『君たちには国民の税金がたくさん使われている。だから社会へ出たらそれを返す気概で仕事をするように』という一言が耳にずっと残っている。何せ、1ヶ月の授業料が1000円。現在、66歳以上で国立大学出身者はたっぷり税金の恩恵を私を含めて受けている。(次の年に3000円に値上げだ)。1年間で1万2000円で当時の幼稚園代より安い。
学長の言葉は、真実のなかの真実を突いている。果たして同世代の仲間たちが、たくさんの国民に還元するような人生を送ってきたかどうか。団塊の世代の教育費については議論されないが、とても安い授業料、つまり国民の税金の恩恵をたっぷり受けてきた国立大学世代でもある。いまは大学生活を送るために有利子なお金を借りて高い授業料や家賃、通信費を払っている。国立で年間54万円の授業料、私立は最低で100万円、専門学校も100万円はかかる。大学の事務員・教師の給与・建築費を払うために学生の親御さんが負担するお金は並大抵ではない。筆者も振り返ると、教育費と住宅ローンの返済のために生きてきたサラリーマン生活であった。とはいえ国民の税金の恩恵で生きてこれたという事実には変わらない。
昔の少年。
確かにそうですね。結婚なども、相手にも意中の人がいたけれど何故か自分と一緒になったとか。相手も意中の人も一時的とは言え不幸のどん底に落とされた気持ちになっていたかも知れませんね。また、その逆もありますね。
seto
考えてみるといまの自分も亡くなった両親がいて生きてるわけで、両親も彼らの親たちが生きて死んでいるわけで、死を不幸と言うならほぼ全人類が不幸の上に立っているといってもいいですね。個人史を見ても、選ぶことは捨てることでもあって、配偶者選びもほかの異性をその時点でそれぞれ捨てるわけですね。仕事選びもそうです。そういう仕組みがあちこちで毎日行われているのですが、強制収容所でナチスやソ連、中国、北朝鮮、731部隊の満洲における日本、現在のISやアフリカの独裁国で『殺す』『赦す』が繰り返されてきた(いる)現実を思うと辛くなります。
流浪の民。
考えてみれば、これまでに自分も、いろいろな不幸を作って来た事を思い出します。バイトのバンドを無断で抜け出した事。同居していた後輩に内緒でこっそり引っ越した事。親にも内緒で移住した事。職場の同僚たち数名を煽動して突然辞めた事。相手の気持ちになっていれば、どれも出来ない事ですが若気の至りで平気に不幸を作ってきました。考えてみれば、そんな不幸のお陰で現在がある訳です。しかし現在はと言えば、さほど幸せでもないですが。あの時々のツケが回ってきたのかも知れませんね。
seto
不幸を誰にもつくらないで生きてきた人はいないのではないでしょうか?自分ではないと言っても、人生は相手がいて成り立つので、そこまではわからないですね。『あのときのお前のひとことで人生が狂った』と思う人もいますよ。人間、自分は悪くないと思いたがる生き物ですから、気づきにくいです。