自分も想像上の物語である(ホモ・デウス下)
国家や神や貨幣と同様、自己も想像上の物語であることが見て取れる(ホモ・デウス下)
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス」の下巻の129pに書かれていた。たとえば戦争で両足を失ったり、明らかに犬死(太平洋戦争は大半は餓死)になのに「彼は国の名誉を守ったとか、彼の死は無駄死にではなかった」とか「国家の栄光を守るために犠牲になった」とか演説する軍人や政治家がいる。それは宗教戦争時代、原始キリスト教やユダヤ教時代でも、現代の戦争も、企業の悪を隠すために命を失った人たちへも、似たような文脈で語り続けられる。言い訳をする言葉や大脳が働くがゆえに、自分にとって無駄な過去や無意味な過去には耐えられないようにできている。意味のある人生や意味のある過去になるよう自己は想像上、操作されている物語であるという。フィクション化である。
そのあとに、ユヴァル・ノア・ハラリは「私たちのそれぞれが手の込んだシステムを持っており、自分の経験の大半を捨てて少数の選り抜きのサンプルだけを取っておき、自分の観た映画や、読んだ小説、耳にした演説,耽った白昼夢と混ぜ合わせ、その寄せ集めの中から、自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのかにまつわる筋の通った物語を織り上げる。この物語が私に、何を好み,誰を憎み、自分をどうするかを命じる。私が自分の命を犠牲にする物語の筋を求められるならそれさえこの物語は私にやらせる」(130p)。
自分の過去は肯定的に見たい人がほとんど。正確に自分の過去が再現される映像がもしあって、自分自身それを鑑賞する時間があれば(およそ不可能だが)、いま自分が記憶として持ってる自分と全然違う自分を体験するはずである。なぜなら、体験や記憶は選択されて(自分に都合のいいように)、自分の人生が意味あるように記憶される。無意味であることに耐えられないのである。ある人がなぜ飲み屋のママに何十年も入れあげるのか?とんでもないお金を使いながら。それをある日、ばからしくなって止めたとする。しかし、そうしたら、これまで注ぎ込んだお金とエネルギーが全部パーになる。愛情を繋ぎ止めるため(店のママにとっては単なる金を使う客のひとり)の過去何十年の自分の人生を否定することになる。無意味であった人生に本人は耐えられないはずだ。
私自身もたくさんの転職をしたが、その都度たくさん嫌な思いや恥ずかしいこともしたが、できるだけ記憶の表には出ないように操作されて自己を作っている。ということは、自己は物語の中で生きているということになる。あなたも私も。貨幣もフィクションなら自己もフィクション、国家もフィクション、企業もフィクションの世界だ。
そういうことに多くの人が気付きだしている。倒れた時にそれが先鋭化する。ある人が、属している集団が無くなった!OB会やクラス会で記憶の再確認と再構築が行われて、自分を安定させる儀式である。
流浪の民
過去の記憶も余り定かではありませんね。すっかり忘れているのか?それとも都合よく忘れようとしているのか?。自分自身の事ですから、もっと克明に覚えていても良いものを、断片的にしか思い出せません。思い出したくないからなのかも知れませんね。
全てを覚えていなければいけない事でもありませんが、余りにもアバウトにしか思い出せません。故郷や親族や旧友たちと遠く離れて暮らしているせいもありますね。たしかに、綺麗な部分だけの切り取りの記憶かも知れませんね。
seto
記憶は全部覚えていることはできませんね。きっとある種の趣向と偏見で選択されてあるのでしょうね。そういう意味でフィクションで誰かに自分は言うのも嘘や作られて言われる可能性高いから信用しない方が間違いありません。その人の言動でわかりますから。自分がどうであるかなんて他人に評価は任せればいいのですが、自己愛の強すぎる,私は私はのミーイズム中心の価値観になると自慢と卑下のの応酬でどうにも生産的な会話や議論になりにくい世の中です。