サッカーボールほか。
1990年代まで、FIFAの発注するサッカーボールは75%以上、手縫いでパキスタンの児童労働で作られていたことをご存じだろうか?ここで5歳から14歳の子供が7000人以上、一個あたりの報酬が50セント(≒60円)で仕事をして、ワールドカップを下支えしていた。
6月23日の「ニューズウィーク」はFIFAの構造的に根深い金権体質の追及を米司法当局がしているが、人権についても様々なスキャンダルがあることを暴露している。サッカーボールもその一つだ。児童養護団体やる労働団体が児童虐待を暴露したため、1998年のフランス大会から児童労働で作られたボールを使用しないようになったとされる(?!)。
しかし、成人の労働者に変わっても低賃金・長時間労働や女性差別は残っていると同紙は指摘。現在進行形のカタール大会の競技場作りも悲惨だ。貧しいネパール人、インド人、スリランカから移民労働者が来ているが、彼らが次々死んでいる。奴隷状態に近い労働、50度を超す灼熱地獄環境、パスポート没収、仕事中は水を飲むことも許されない。国際労働組合総連合は、ゲームのホイッスルが鳴るときには4000人の移民がカタールで死ぬと警告している。
ネパールを元気に出た労働者が帰国したら「棺に入って帰国」のテレビニュースを筆者は一度見たことがある。貧困から出ようと仕事を求めて、人買いからパスポートをもらい出国するものの行き先は灼熱地獄。タコ部屋だ。しかもカタールは、政党や労働組合は禁止ときている。FIFAの事務局長曰く「W杯を成功させるには、時に民主主義が発達していないほうがいいことがある」と発言した。
一連の事件を見ていて筆者は「オリンピックの身代金」(奥田英朗)という小説を思い出した。東京オリンピックの国立競技場を建設するために秋田から出稼ぎに来た兄が下請けに入り、期日までの完成に身を削って働くが、その労働の過酷さにヒロポンに手を出して、疲れを癒すが、結果としてヒロポン中毒死する。弟の東大生が、兄の弔い合戦を企てるべ、自分も飯場に入り、兄と同じ肉体労働を体験して、ヒロポンを打ちながらも開会式で爆弾を仕掛ける話だ。説得力のある小説であったが、物づくりの最終現場がいかに人権を無視されて、命を削っているのか。派遣と請負を増やして人件費の低下、法人税を下げたことで上場企業の正社員の夏のボーナスは高かった。
マスコミも高かっただろうけど、テレビ局が番組作りに使う制作会社の給与は悲惨である。それだけは伝えておきたい。身近に知人がいれば聞いてみるといい。
話は、ワールドカップに戻るけど、南アフリカ大会や昨年のブラジル大会も、観光客向けのホテル建設のためにスラム街を潰してまた貧しさを見せないために、強制収容所のようなところへケープタウンで数千人、リオで9000世帯以上が家を追われた。
いつのまにか、4年に一度のオリンピックとワールドカップが恒例に。いつまでこんな茶番(メダルの個数争い)を人類は続けるのだろうか?膨大な国費を乱費して、テレビをお祭りにして、ゼネコンと広告会社・アスリートOBの生活維持のために、膨大な金を費消する。終わった後の維持費でさらに国の経済を悪化させている。政治家や経済界でも、もう「オリンピックやワールドカップは必要ないんじゃないの?」という人が出てきてもいいような気もするけど。「冬の五輪」を見ていても、参加はアメリカ・カナダやヨーロッパに日本だけ。ボブスレー競技でジャマイカでも出れば面白いけど。
もっと大切な国費の使い道があるのではないだろうか。「東京オリンピックを史上初めて開催地が決定後、返上した」というニュースが世界に流れることを期待する筆者である。人の集まるところにテロも集まりますよ。それを警備するのに警備費が莫大にかかりますよ。「洞爺湖サミット」を体験した筆者は、超超異常な監視・警備の中にいて吐き気を催しましたから。日本全国のパトカーが集合しました。どこかの島で開催して欲しい。誰もいないところで。
昔の少年
男も女も含めて「仕事の出来る?奴」は都会にはいっぱい居る。ホワイトカラーとか言われた彼ら彼女らはビジネス・スーツにきれいな靴とブランドものの時計やアクセサリーを、これ見よがしに身につけ鞄ひとつでラッシュの満員電車で毎日毎日通う。都心にはすべての大手メーカーやインポーターの本社・本部が集中している。そこでは物は作られていないからPCと机と会議室しかない。一日の大半をPCの前で座ったまま過ごす彼ら彼女らは自ら「仕事の出来る?奴」と自負している。そんな仕事ぶりを見れば一見カッコ良くも見えるが冷静に見れば、仕事?を右から左に流しているベルトコンベアの工場の工員と何ら全く変わりはない。ここで言われている「仕事の出来る?奴」とは、仕事を他人に振ることで、自らを身軽にすることだ。その振られた他人もまた他人に振ることで、必要以上に不要な人員を要する事になり、末端の組織労働者や派遣労働者、下請け業者に全てのしわ寄せが来るから残業となる。残業を減らして効率よく働こうと叫ぶのは大抵「仕事の出来る?奴ら」だ。奴らは、定時に出社して定時に帰り、決まってこう言う。「残業する奴らは能力が無いからだ!」と。組織の末端にいるものは中間の「本来の仕事をしない?出来ない奴ら」にこき使われ、蔑まれ、残業を押し付けられる結果健康を害して職さえ失う。転職しようにも辞めた理由を理由に再就職の道は閉ざされる。仕事をする奴は「出来ない奴ら」と分類されている現実なら、その部分を無くせば組織は全く機能しないだろう。むしろ中間の「出来る?奴ら」と言われる奴らこそ誰にでも出来る「能力の無い奴ら」なのだ。組織をシンプルにすれば膿も溜まらず仕事の出来る失業者を増やさないだろう。外国の貧困児童の労働から見れば比べようも無いが、身近にも貧困を生むべく構図が出来ている。今では博覧会も無くなったがオリンピックも他人の金を勝手に使うからイメージがどんどん膨らむ。既存のスポーツ施設を利用するプレゼンテーションでは開催国の資格を与えない組織IOCにも問題が大有りだ。むしろ後進国で開催し、参加国が支援しあって施設を作り、選手自らも厳しい環境を体験しつつ不便さを世界に発信すれば世界平和にも貢献できる意味の有るイベントにもなるだろう。世界のあらゆる貧困を少しでも4年に一度でも救えるプレゼンが通るなら。