人間は面白い生き物で、自分の一番の弱点を他人に見つけたら、その人間に素晴らしい説教節を説くものだ。日本で有名な仏教学者がいて、私も易しい日本語で書かれてあるから、読みやすいので何冊か読んだが、ある日、彼の自宅マンションから1億7千万が盗まれ、数千万円の金の延べ棒は無事であったというニュースを見て、以降、彼の本を読むのを止めた。新書から単行本まで、どこの図書館にも彼の本は置いてある。こういう場合、どうしたらいいのだろうか。当然、金銭についても小欲を説いていたはずだ。銀行に大金は普通は預けるものだが、税務署の監査を逃れるためとしか思えない。

人生論めいた「説教臭い」本は「胡散臭い」というのが真実ではあるまいか。こういう本のずるいところは、「自分にもそういうところがあるのですが」とたっぷりと断りを入れてから、説教へ入るところだ。いかにも謙虚を装い、うやうやしく説いていく。新興宗教の勧誘と手口は似ている。新興宗教が印刷物や宣伝本をたくさん買わせるのも、説教で洗脳するのだと考えると納得がいく。こういう類の本がまたよく売れる。クリスチャンの高みから人の分際を説く曽野綾子の説教本も売れるだろうね。「他人へ説教する本なら私は書きません」ぐらいの気概が書き手に欲しいと思うのは私だけだろうか。

しかし、そう考えると、教えることと説教とはどう違うのかとも思う。教育行為が成立しないな。1+1=2とかC+2O=CO2の世界だけ?。いや、ここに「真実」という概念を入れると、「教える行為」と「説教する行為」が区別される気もする。しかし、信じてる人間から見たら「真実」はひとつかもしれない。どうしたらいいのか。

人類が発明したすべての宗教は、根っこに「説教」が実はあって、この説教って、その正体はいったいなんだろうと思う。わたしは、自分の表現したことが「説教臭い」と思われたら、もうおしまいと思う人種なので、このあたりは注意しているつもりでも、結果として「説教」になる場合もあるかもしれない。

たぶん、私はこの「説教」をどこかで「権力」と読み替えて理解しているところがある。さらに説教をするにも、その世界で十全な知恵と自己分析とを経ていないと、他人へどうのこうのと言える身分ではないと思う感情が強くて、強い言葉を前に出せない。「説教者」が「権力者」に私には映り、極論をいえば自分の後ろに国家権力を背負っていたり、六法全書で理論武装して生きている人間への軽蔑が底流にあるのだろうと思う。しどろもどろのブログになってしまった。小企業で営業を続けてきた人間にはきっと届く言葉だと思う。

  1. お盆になると田舎のお墓参りに行けない時には先祖代々同じ宗派の月寒のお寺に3000円ほどのお布施を包んでお参りに行く。タイミングよくお説教の時間に遭遇した事があった。お坊さんのお説教は職業柄似たり寄ったりと思いきや?何と、プラトニュームの話から始まったのに驚いた。原発の危険性を説き判りやすい話で大変勉強になった。宗教も大学で学んでお坊さんになる時代であって、仏教以外の知識も豊富だ。眠くなる子守唄のはずのお説教が聞き耳立てるほどに新鮮だった。お説教に限らず講義や公演にしてもドラマにしても、小説や文章にしても、わかり易く理解しやすいのがいい。ジョークを交えたり落ちを入れたり眠くならずに聞けたり、見れたり、読めれば、心の中に自然と入り込んでくる。気がついた時には、既に洗脳されているかも知れないが?。

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