幸せになりたければ(立川談志師匠)
疲れたときには立川談志の言葉を聞きたくなる。
幸せになりたければ
人間一日だけ幸せになりたければ、床屋に行くといい。
一週間幸せになりたければ、結婚するといい。
一年間幸せになりたければ、家を建てるといい。
一生幸せでいたければ、自分で正直であるといい。
今宵、幸せになりたかったら、談志を聴くがいい。クアーッ!「立川談志 まくらクレクション290p)
立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわ・うんこくさいいえもと・かってこじ)。この法名ならテレビで放映されないだろう、新聞にも掲載されないだろうという読みが談志さんにあったとも言われている。落語はひとりで最低2人は演じ分けないといけない。そこのどこに自分を入れ込むのか?下手したら自分が無くなってしまう危険を孕んでいる芸だ。
ある瞬間、狂気に近い精神状態になるときも見ていてある。天才落語家桂枝雀が縊死したときもそれを感じた。落語が好きなのは、傾いた依怙地な武士しか出てこない。隠居や八さん、熊さん、職人、主人公のおかみさん、魚屋、坊さんも出てくるかな?とにかく武士が出ても揶揄される場面も多く、「これ下々の者!」とか落語の世界は台無しになる。町民(長屋)文化を壊してしまう、貧しい人たちが顔合わせてのドラマ人情噺だ。古今亭志ん朝の『三軒長屋』と『お直し』を1978年1980年録音で聞いている。
表題に戻れば、筆者の持論は、幸せなんて瞬間芸みたいなもので、あっという間に終わります。だから不幸が来ると言う意味でもなくて、平板な日常が続くと言うことです。平板な日常でも維持するだけでも大変。この日常を非日常で覆い尽くすと楽しいけれど、後でとんでもないツケが舞い込むので注意です。何人もいました。
長く生きてきた人はわかると思うが、自分の持病や事故や毎日の仕事の悩み、配偶者の病気、子供の進学・就職・引きこもり・転職騒動・結婚・孫の誕生、そうこうするうちに両親の認知症や病死、財産分け騒動。平板な日常でも自分に関わることは山ほどある。
しかし、平凡な人生でもいいといっても平凡にならず。サラリーマンなら人事異動や上司の配置転換、下手したら倒産や失業に遭遇することだってある。何度も書いたけど一寸先は闇。闇の中へ手探りで歩んで行くことしかできない。ひとりでね。
坊主の孫。
今を幸せと思えるか?思えないか?。不幸を十分に味わって来た人と、そうで無い人の感じ方の違いもあるでしょうね。取り敢えず、とんでもない不幸に見舞われない限りは幸せと思う事でしょうね。欲を言えばキリがないですからね。過去に大きな障害を受けた経験者ほど平穏な日常を楽しめるのかも知れませんね。
seto
大病をすると幸せのありかを探しやすくなります。どんな平凡なことでも感動する気持ちの癖がつきます。昨日食べたスーパーのところてんは、祖母の手作りところてんを思い出して少年時代の夏休みを思い出しました。8人の親戚の小学生と雑魚寝で過ごした夏休みでした。お互いの親の通夜で50年55年ぶりに会いましたが、小学生時代の楽しい夏休みは皆、覚えていました。母の実家の商店で店のお菓子を全部食べてしまったとかホタルを見にいったり。思い出すと切なくなりますね。
昔の少年。
人生すべてが幸せなんてあり得ないですね。人は皆、数多くの経験の上に暮らしていますから、幸・不幸は入れ替わり立ち代わりやって来ますね。それらを乗り越えて、年老いた時に振り返って、初めて自分の生き方への判定が下せるのでしょう。楽あれば苦あり。幸も、不幸も平等だったのかも知れませんね。
seto
私も幸せと不幸は交互にまだら模様にやってくると思っていたのですが、しかし、身近にいろんな人をみて自分の責任ではないことで苦しみ続ける人をみたり、親から虐待を受け続けている子ども、餓死寸前の人たちのニュースや写真を見て、絶対的な不幸ってあると思う。コロナウィルスは平等思想を体現しているのかもしれません。しかし、それも医療の受診ではアメリカでは富裕層に手厚い。サウジ王族(1万人)はコロナを避けて逃げ回っています、国民とともには生きません。