カミュ「ペスト」再読より(2019年3月22日掲載)
カミュ『ペスト』再読より
新型コロナウィルス拡散で読まれているので、1年前のブログを再録します)
20代半ばに読んだカミュの『ペスト』。作品発表は1947年なので73年前に書かれた。架空の町オランは発生したペストで町は完全閉鎖、次々に起きる住民のペスト死とそれと戦う医師リウーと仲間たちの物語だ。オランは地中海に面しているアルジェリアの架空の町。1匹、2匹とネズミの死骸が街中に出てきて、それが人間に伝染して死を招く。肺をやられる肺ペストとリンパにできる腺ペストがあるが、医師リウーはフランス本国に血清を大量に求めたり、足りない医師や補助員を要請するが間に合わない。そのうち1日で100人を超える死者が出る日もある、自身の健康さえ危うい中を命がけで戦うリウー医師と町の保健所の無能な働きに業を煮やし、奉仕隊を作り、各戸を周り、患者カード作りに淡々と励むタルーとグラン。彼らとの友情物語でもある。
タルー『このペストはあなたにとって果たしてどいうものになるか』
医師リウー『際限なく続く敗北です』(188p)
しかし、その後
医師リウー『ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです。…誠実さっていうのは僕の場合には、つまり自分の職責を果たすことだと心得ています』(245P)
街に閉じ込められた新聞記者ランベールは、恋人をパリに残して何とかオランの町から脱出し恋の成就を図ろうとするが、厳重な閉鎖都市を金の力で突破できるかどうか。
どこでもありがちなキリスト教会でのパヌルー神父の日曜説教『皆さん、あなた方は禍(わざわい)のなかにいます。皆さん、それは当然の報いなのであります』(137p)『今日、ペストがあなたがたがたにかかわりを持つようになったとすれば、それはすなわち反省すべき時がきたのであります。』(138p)どこかで聞いたようなセリフだ。アメリカはじめキリスト教国でリピートされそうな演説だ。ペストは旧約聖書のモーセの出エジプト記にも出て来るから、疫病(ウィルス禍)の記録は古い。モーセの時代は紀元前13世紀なので3400年前からウィルスに苦しめられ、私たちはいまも苦しめられているわけだ。しかし、人類は文字のない時代の方が長いので、伝染病で命を落とした数は数えきれない。
こういう描写があったので最後に書き留めておきます。街中を走る電車です。『すべての乗客は、できうるかぎりの範囲で背を向けあって、互いに伝染を避けようとしているのである。停留所で、電車が積んできた一団の男女を吐き出すと、彼らは遠ざかり一人になろうとして大急ぎのていである。頻繁に、ただの不機嫌だけに原因する喧嘩が起こり、この不機嫌は慢性的なものになってきた』(174p)
現代版のソシャルディスタンスである。
私自身もどこかですでにコロナに感染している可能性も否定できない。単に症状が出ていないだけかもしれない。ウィルスとはそういうものである。
新潮文庫(宮崎嶺雄訳)『ペスト』より。
迫真力ある「ペスト」の実録を希望するならデフォー「ペスト」が凄い!私のブログカテゴリー「ペスト」に何本か書いています。
坊主の孫。
群れ騒ぐ若者たちと、梯子酒の中年、病院や介護施設内での職員や患者とその家族への感染が拡大して来ました。3月ころから感染騒ぎでピリピリしていた緊張感と違って「コロナとは上手に付き合って行くしか無い」と、分かったような分からないような解釈が一般的になり、夏の暑さも手伝って、人々は開放的に行動するようになりました。あちこちでオープンカフェや通りから見える店先での飲酒飲食やビヤガーデンまで現れています。つまり感染予防より、発生したら止めれば良いスタイルですね。昨日もライブハウス、先日はキャバクラ、ビヤホールでもクラスターが出ましたね。東京はニューヨークに、札幌は東京に近づいているようにも思えます。人間の長い歴史の中で感染症の怖さは十分学習している筈ですが、自分の都合よく考えるのが人間の性ですね。
seto
自己都合で考える人間たち、そのとおりです。私も自己都合でブログを書いて電力消費してます。新型コロナは秋冬にインフルエンザ同様流行し、夏や梅雨には弱体化すると予想した感染学者たくさんいました。なんの根拠なくテキトーなことをメディアでしゃべってギャラ稼ぎ、コロナ特需の恩恵にあります。図書館からウィルスの再勉強に『動物ウィルスが人間を襲う』を借りてきました。エイズのところまで来ましたが、コロナの項目はないのですが冷静なわかりやすい本です。PHP。2006年の本ですが、ウィルスはわからないところが多過ぎる、ウィルスは進化する・変身することを考えるとワクチンが開発されたとき、すでに別物になって空振りの開発費になったり、副作用で病気が発生する危険もあります。ワクチンに過大な期待は持たない方がいいと思います。ではどうするか?たくさんの病院を『コロナ専門病院』を作るしかありません。たくさんの診療科目を持つ病院内でコロナの部屋を作るより、循環器(呼吸器)と感染症+必要な診療を加えて特化するほうが病院経営的にもいいと思います。若者のエネルギーを『じっとさせる』のはかわいそうですね。異様なキャンプブームも家族の解放感味わいたい気持ちがなせるわざですね。野性に帰りたい、サババル訓練をしているのか、本当の火をつけたいのか(私は花火大好きですが)。
昔の少年。
人間社会は自然の中のほんの一部分なのでしょうが、自然環境が気象や地殻変動によって変化して居るように、人間も自然淘汰されているのでしょう。その原因は人災もさる事ながら、自然がもたらす災害や今回のウイルス禍など様々なのでしょう。ポンペイが火山灰に埋もれ消滅したように先の事は誰にも読めません。いくら注意しても防げない災いは、防ぐ努力は必要ですが、最後は受け入れるしかないのでしょうね。そうして現代の我々が有る訳ですからね。
seto
『清潔なところほどウィルスに感染すると重篤化する』。小さいころから不潔な環境で育つと、弱体ウィルスの数々にさらされて免疫化が進行して、新しいウィルスに免疫反応で追い出す力ができています。大都市は上下水道が完備され、各家庭で幼い時から清潔教育を施して、しつけをしてますから、弱い体質の人が量産されてる気配です。強迫的に手を洗わないと済まない人がいましたが、現代はその数が増大です。ウィルスはアルコールに弱いのでそうするのですが。ウィルスも元々人間を含めて細胞から外に飛び出したもので、故郷の人間に戻ってきたいのでしょう。戻りたい細胞(コロナウィルスを呼びこみやす人)に入り、鍵穴を開けて、相手の細胞に入り、増殖を繰り返す。発熱・嘔吐・咳や下痢・味覚障害を起こします。脳神経に行く場合もエイズウィルスなどはありました。大自然にもともとあった隔絶されていたウィルスを鉱物の開発や森林伐採で奥へ奥へ人間自身が接近して病気を招いてしまったか、武漢ウィルス研究所で、遺伝子レベルで粗雑な密閉空間でマウスに遺伝子操作をするときに誤って外に漏れた説もあります。どちらにしても人間の営みの延長で今回の大事件はあります。また勉強したら新しい説を紹介します。
匿名
子供の頃を思えばワイルドでした。遠足には親が素手で握ったオニギリを竹の皮か新聞紙に包んでリュックに入れて行きました。仲良しの女の子はトロロ昆布のオニギリでしたから羨ましくて交換して貰い、皆んな手洗いなどせずに素手で持って食べました。誰も腹痛など有りませんでした。山の木の実のアケビやイチゴもそのまま食べました。野菜のキュウリやトマトもイチゴもスモモも自分で捥いで手のひらで擦って食べました。スイカは河原の岩にぶっつけて割って食べました。トイレに行っても手洗いは学校でだけ、普段は洗いませんでした。水は谷川の水を両手ですくって飲みました。夏の暑い日には谷川の水が最高に冷たくてたまりませんでした。アイスキャンデーなど贅沢品は、お駄賃を貰って汽車に乗ってお使いに行く時くらいでした。水道も水洗トイレも無い田舎でしたが、病気の子は居ませんでした。
seto
恥ずかしい話、コロナが来る前に私は、手を洗う習慣が全くありませんでした。妻曰く『あなたって、どういう躾を受けたの?』と驚かれます。『なんにも受けていないよ!』。母はおにぎりを作るとき、手につばをかけながら握ります(笑い)。平気で食べてました。どこの家でもやってることだと思ってました。小学・中学で清潔志向の強い男は馬鹿にされてました。汚いことが生きる強さの証みたいな価値観もありました。どんな環境でも生きてみせるとね。清潔志向は女々しいとされてました。同世代に聞くと『同意する』人が多いです。食べていた飴を口から落としても拾って平気で食べてました。捨てるなんてもったいないです。泥を食べても少しガラガラするだけで飲み込めば大丈夫です。