江戸時代の武者修行。(投稿原稿)
江戸時代の武者修行というのは、時代劇でおなじみのものとはちょっと違っていたようです。佐賀藩の牟田文之助という人物が、嘉永6年から安政2年までの2年間、武者修行を行った際の日記を残していて、それによると、まず武者修行は藩命による公費出張でした。現代で言えば、各国の警察や軍の関係者が、他国の技術研修に参加するような感じです。しかも、多くの藩がそれぞれ武者修行者を送り出していたので、お互いの経費削減のため、無償の修業人宿が用意されていたようです。
武者修行者は、目指す藩に到着するとまず修業人宿に宿泊します。ここで宿の係に要望を伝えると、係は道場を回って修行者に代わって訪問日時のアポをとってきます。この段階で断られることもあったようですが、予定が立てば当日に道場に出かけ、主に全体稽古に参加したり、練習試合を行いました。
江戸時代になると、竹刀が使われるようになり、気軽に試合ができるようになりました。また、稽古が終わった後は、道場側で一席設け、門弟たちと楽しいひととき、ということも少なくなかったようです。時代劇のように、殺気立った浪人者がアポなしで道場を訪れ、木刀で師範代を叩きのめして、金品をせしめたり看板を持ち去ったりすれば、当時であっても、強盗、致傷事件になったと思います。
修行者は修業人宿で他藩の修行者と情報交換したり、道場の宴会などから次の訪問先を決め、全国を歩いたようです。牟田文之助の日記では、肝心の試合内容については、「大したことない」とか、「なかなかのものである」とか、ごく簡単に記しただけで、むしろその前後の名所観光のほうに力が入っています。と言っても武芸者としてはかなりの腕前で、また人望の厚い人物だったらしく、道場で引き止められたり修行者仲間から同行を誘われたりしていたようです。
また興味深いことに、牟田文之助は東北まで旅を続けてきたところで、蝦夷地行きを検討しています。結局は行かずに日本海側に出るのですが、行こうと思えば行けたのでしょう。当時の日本人の、蝦夷地までの距離感がわかるような気がします。現代で言えば、個人や観光では行きにくいけど、仕事で公費で行く人は珍しくない。アフリカの小国あたり、という感じではないでしょうか。
修行のネットワークができていたとはすごい。約2年の修行漫遊は風光明媚な観光をも兼ねていて、きっと土地土地の産業や方言についてもたくさんの発見があったと想像します。蝦夷地までもし来ていたら、残された日記に何が書かれていたのか読みたい気もします。一人で旅をしていたのか複数で行ったのでのでしょうかね?落ち着いていた江戸時代なので各藩同士の信頼関係もみえたりして、いい話でした。
広告マン。
それは意外でした。子供の頃に剣道を習っていた私ですが、武者修業とは田舎にゆかりの佐々木小次郎など剣客しか想像できませんでした。それほどにシステム化されていたとは。全国津々浦々巡って情報収集やら情報交換が主目的だったのですね。おまけでフリーでの観光付きと言うわけですか。藩からの出張旅費まで用意して貰ったとはGO-TO-トラベル以上ですね。
seto
私たちが考える以上に藩同士の連携や人的交流が武士に限らず、工芸や学問(私塾)が全国で幅広く行われていて,自由なネットワークがあったと考えるのが今日の常識ですね。サラリーマンの長い出張に勉強会と観光がついていると考えるとわかりやすいですね。行く方も今度は迎え入れるわけですからお互い様ですが、地域の事情や噂話の拡販には人の口を通して伝わったのでしょう。
流浪の民
武者修行は2年間程度でしたか。一生渡り歩いてどこかで命を落とす危ない旅とばかり考えていました。でも、いくら出張旅行とは言え、二本差しだけが頼りですから、余程、剣の腕にも自信が無ければ無事には済まされませんね。
seto
そうですね、行く先々で道場の人からやられてばかりいたら、何のためにはるばる来たか、わからなくなりますね。ススキノに姉ちゃんと遊びにだけ行くことにOK出す会社はないのと同様です。