修行と勉強(連続投稿)
修業と勉強
現代人で修業の経験のある人は多くないと思います。ここで言う修業は師匠に弟子入りして学ぶことで、一人で山にこもって修練するようなのは別です。修業をするのは職人や演芸、武道家などで、僧侶の場合は「修行」という言葉をあてるものの、挨拶の仕方からたたき込まれるという点では同じです。
修業は勉強と似ていますが、必ず師匠と1対1で学ぶという点が違います。また、勉強は生徒全員に同じ内容を教えますが、修業では弟子一人ひとりに教える内容が同じとは限りません。また、修業によって名人、達人になるという話をよく聞きますが、本当の修業の効用は、あまり才覚のない人間をそれなりに仕上げるところにあります。
その昔は、自分の子供は勉強もできず、かといって体力があるわけでもないので、役人や兵隊にはなれないから、大工の棟梁や料亭に弟子入りさせようという親がいました。そういう「少し難点のある人材」でも、人並みの職業人になれ、あわよくば名人、達人になれるかもしれないというのが、修業の眼目です。能力がないのが根性までひねくれてしまうと手遅れなので、なるべく若いうちから住み込みで監視し、罵声やゲンコツも止むをえないというやり方です。
板前さんの所作を見てると、絶えず包丁やまな板を洗って拭き取ってを繰り返してますが、あれは黄色ブドウ球菌のことを考えてではなく、体にたたき込まれているので、何も考えなくても手が動いてしまうのでしょう。だから板前さんの作った刺身のほうが、細菌学の権威が作った刺身より衛生的です。
現代社会では、学校で一定の成績がとれれば職業人としても十分とみなされますが、ゲンコツで修業を受けてたほうが、本人のためではなかったと思う人が時々います。以前、ホリエモン氏が「寿司屋の修業に何年もかかるのはおかしい。寿司など数日で握れるようなる」と言ってましたが、彼ならそうなのでしょう。でも、トイレの後、必ず手を洗ったり、無意識に頭を掻くクセがなくなるまで何ヶ月もかかる者もいます。自分がゲンコツで仕込まれたからと言って、誰もがそうあるべきだというのはおかしいですが、言葉で言えばわかるはずというのが前提の社会は、ゲンコツのほうが恩恵になるような人材にとっても優しいと言えるかどうか疑問です。
流浪の民
余り才能の無い僕は若い頃、弟子入りを決意しました。4年間修業しましたが大先生の足元にも及びませんでした。実力の壁を感じた僕は意を決して大先生に言いました「東京で今と違うジャンルの勉強をしたいので辞めさせてください」と。驚かれる?かと思っていた僕の考えは見事にひっくり返されました。「いいよ!」の一言で終わったからです。一番弟子とは言え、そこまで必要紙されていなかったのです。考えてみれば大先生の身の回りの雑用から、或る時には食事の用意や、せいぜい仕事上のお手伝いで過ぎた4年間でした。その後、実際には東京行きの手はずを整えてはいたものの、それも覆し、玄関の札幌へ向かったのでした。
勝手に飛び出した形でしたが、でも今になって、その頃の大先生の無言の教えに感謝する気持ちになりました。
seto
私は大学のとき留年を繰り返しても黙って見守ってくれた助教授がいました。彼の弟子ではまったくないのですが、私のそのままをそのまま認めてくれる人って実はいるようでいませんでしたね。しかしペラペラおしゃべりしたり、物事を教えようとする教師より、深い印象を持っているのはどうしてでしょうか?すい臓がんで自宅療養してましたので見舞いに行きましたが、会ってくれませんでした。果物やケーキを持って行ったので、数日後礼状が届きました。彼みたいな生き方がいいなあと、静かにフェイドアウト、理想です。