『一旦、信じた観念をなかなか放棄できない生き物が人間』(町田康)
コロナの始まりのころ2月7日のブログ。
このテーマは何度も書いてきたが、『一旦、信じた観念をなかなか放棄できない生き物』が人間だとしたら、どうしたら、その観念を『放棄できて、別な観念を獲得できるの』かということが残る。が、そもそも真実を追い求める欲望がその人にあればの話だ。というのは『考えるのは面倒くさい。私が信じてることはたくさんの共感者がいて、これでそこそこ他人との関係もうまくいく。それをいまさら、違うぞと説明されてもね』という人が案外多い。『理屈っぽい』とか『すぐにあなたは現実を否定する』とか『もっとシンプルに考えたら』とか極端は『あっちへ行け』とまで言われかねない。これはどんな宗教でも信念があるわけだから(ある年齢、ある場所で洗脳され、心地よい暮らしをしていていまさらそれをポイと捨てることがないとしたら)、会話の継続が成り立たないことを筆者は何度も経験した。新興宗教(ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も発生時はすべて新興宗教だ)ここで気づくが『心地よい暮らしをしていて』というところがキーワードで、それが揺さぶられるのが異文化とのぶつかりである。娘が大分県へ嫁いだとき、福岡出身の奥様を持つ会社の同僚から『あそこは男尊女卑がすごいわよ』と電話の向こうで奥様の声。温泉が多い土地だから、温泉好きな娘なので『いい湯だな!』で誤魔化して生きていけると思ったものである。ぶつからないで『ごまかし』も大事でこと。しかし、狭い世界ではなくて、人種的な偏見や肌の色による差別などワールドワイドなことに関して、『一旦、信じた観念をなかなか放棄できない』人々の方が多いのではないかと思う事件が多発している。フェイスブックやツィッターで瞬時に自分の思いを表現できるツール(武器)を装備してから、それでバンバン撃ちまくる人が増えて混乱と偏見が拡散されている。次に来るのは『謝罪』という行為で、それの繰り返しが内外でリピートしている。翻って、自分はどうかと考えると、ブログを始めた6年前、自分の10代後半や20代30代に抱えた観念と現在とどれほど変わったのか確証が持てない。持てないどころか、自分の小さな核みたいなものが肥大化してむしろ偏見が強化されているようで自分に危機感を覚えるくらいだ。
坊主の孫。
観念とは人それぞれに個々に抱くものでしょうね。一方、概念となれば大方の人々が思っている事でしょうか。固定観念となれば一つの事に固守している事ですよね。一旦固定してしまえば、解きほどくにも大変な葛藤が要ると思いますね。いつか?一旦固定してしまった(されてしまった)観念に満足してしまえば話は別ですが。観念にはいろいろな使い方が有りますね。例えば強迫観念とかになれば、もはや穏やかではありませんね。
seto
固定観念ってどうしてできるのか、考えると,その人が幼い頃から育ったしつけや家庭環境や遺伝的なことであったり出くわした事件や人々の影響であったりして、どうしてそういう観念が植えられたのかわかりにくですが,現実の暮らしや他人との付き合いの中で、あれっ俺って変かもしれないという判断になるかもしれません。何でも絶対的なことはないんだと思ってると間違いないですね。