こだわりを減らすと、自由さ寛容さが増える。

自分の好みや趣味やお店や生き方で、色々な場面で決めなければいけないときに「こだわり」を強く押し出す人が最近、多い。貧しい育ちながら、筆者は「どっちでもいいじゃないの?」というレベルの話なのだが、ついつい私も流されて食べ物に蘊蓄を傾けて「失敗した!」と反省する。私も同じ穴のむじなである。

選ぶ店や商品の数が多くなるに比例して「こだわる人」が多くなっている気もする。広告やコピーは、同じカテゴリーの商品を差別化して、いかに自分の店や商品が美味しいか・優れているかを主張する。いつのまにか消費者の大脳に「刷り込み作業」を行い、刷り込まれた人は、隣の人に「間接的な刷り込み」を行うことも多い。これは大脳の思考停止状態で、口をぽかんと開けてテレビの画面に一喜一憂する視聴者を後ろから見ると、刷り込まれている自分を発見するかもしれない。昔、日本テレビを見学したときに、ミキサー室をのぞいた。机に脚を乗せてタバコを吸いながら、画面に全テレビ局のモニター画面を映していた。一つの番組が終わると、次の録画番組テープがごろごろ回って、所定の位置について、時間がくれば回りだして全国の日本テレビ放送網へ流される。こんな小さな部屋から流される番組の向こう側に何百万人の視聴者がいると思うと、頭がくらくらしたことを覚えている。自由さではなくて圧迫感であった。自分の五感を自由に動かせる世界からみたら、テレビは相当に不自由な世界である。偏見を増長させるものでもある。

たとえばイラク爆撃を強行したアメリカ空軍の映像で、爆弾を落とすシーンや無人爆撃機が攻撃する映像を見ると、その下にイラク市民の阿鼻叫喚があるはずで、その映像は地上で空からの攻撃を写すカメラアイがないと見えない。想像力も必要である。映像もいまは人工的に作りこみもできるからあてにならない。写真もしかりである。そういう意味で信頼のおける人の発信する言葉が、映像以上にことの真実を伝えると思う。

性急なこだわりや断定をする前に立ち止まって、まあ相手に選ばして、残ったものでも良い、くらいにして生きていると楽な生き方、寛容な生き方に近づくと思うがどうだろうか?消極的な生き方過ぎるか。

  1. こだわる、という言葉は以前は意固地になる、妄執、かたくなで偏狭というような、非常に悪い意味で使われていた言葉でした。それがどこかのラーメン屋が、「愚直なまでに手抜きができない」という意味で自虐気味に使い出したものに、メディアが飛びつきました。ですから「走りにこだわった車」などと言われると、「安全にも気を配ってくれよ」と思ってしまいます。現在ではほとんど悪い意味は消えてしまいましたが、気持ちが悪いので自分で使ったことはありません。こういう風に、いつまでも変化を受け入れられずに言葉尻をとらえてグズグズ言うのが、本来の意味のこだわりですね。

  2. こだわりは一種の偏見ですね。一般的なものを受け入れず、ちょっと変わったものに興味を持って他人とはちょっと違うんだと言う自己主張の方法の一つでしょうね。しかし、どれもこれも自分が作り上げた物ではなく、誰かからの情報源を元にしていますね。本当のこだわりは自分オリジナルが正当では無いでしょうか。

    • 私の偏見では、そんなところにこだわらなくてもいいのにと思うんだけど、こればっかりはね。食べ物は何でも美味しいし,水もうまいし,女性もきれいだし,毎日楽しいと思えば幻想でも楽しい人生を送れて終えることができるのにね。

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