むのたけじ(詞集たいまつⅡ160p)。『どんなにひとりぼっちでいたいときでも、だれか一人の他人とのつながりを望む気持ちは捨てきれない。それが〈人〉だ。「だれにも会いたくない」というのは「だれかに会いたい」ということだ。』。箴言のかたまりのようなむのたけじさんの(たいまつⅡ)。

ほかにいくつか紹介します。すべてたいまつⅡから。

●みんなのものであってだれのものでもない地表に、私有だ、公有だ、国境だとクイを打ちこみはじめたときから人類のハートは血を流して痛みはじめた。死ねば大男だってせいぜい一坪しか占有できず、当人もたちまち土に同化してしまうのに。

●所有するなら、用いるために所有せよ。使わないものは持つな。

●鏡を割っても顔の汚れは消えない。

●他人の私事に関心をもちたがるな。話題はつまるところ二つ、財布と性器だ。だれだって持ってるじゃないか。のぞき見をするひまに自分のケツを洗おう。

●いまの子どもはカネに敏感で有名になりたがって責任感が乏しくてラクをしたがるなどと、実はおとな社会の投影にすぎないものを殊更の発見のようにこねくりまわして名を売ってカネをかせいでいるおとなたちがいる。「現代っ子」屋という営業は、まことにさもしい。

●他人のつくった道を歩こうとすれば方向を強制される。自分の道をつくれば方向は自在である。それが地表の掟だ。

●子どもをいましめるのにすぐ「世間」の二字をもち出す親は、世間なるものに助けられた喜びを経験していない。そしてたぶん世間なるものに尊敬されてもいない。

●世間さまに申しわけない、世間に笑われるぞ、世間に顔向けできなくなる、世間の口に戸は立てられない、世間の目はきびしい・・・・・といったふうに絶えずいわれると,子どもはかえって社会になじまなくなる。

●西郷隆盛という人は青年に対する対応がまことにていねいだったそうですね。来訪した青年が帰るときは必ず自分で玄関まで見送った。居ずまいを正してすわり、ふかぶかと辞儀をして「おたの申します」といって見送った。青年のだれに対してもそうだったという。2400年むかしのギリシャ人ソクラテスもまた青年に出会うと必ずその方を向いて、特徴のある大きなハゲ頭を深く下げておじぎをしたという。時の古今、洋の東西を問わず、歴史を自分の足で歩いた人の胸中には、時代の新しいにない手たちに対する尊敬の念があふれていた。青少年に対する尊敬なくして、なんの教育ぞ。

 

  1. 西郷さんの話を聞いてではありませんが、ある時期から後輩に「さん付け」で接するようになりました。そんな頃、こんな事がありました。年下だけど気の合う友人とよくお茶をしていろんな話をしたりして行き来していたのですが、或る時、彼が勤務先の会社を辞めました。しばらく姿を見なかったのですが、或る日、訪問先の会社のオフイスの常務席に座っていたのでした。この時ばかりは驚きましたが、これまでの「さん付け」のお蔭で、すっかり立場の変わった友人とも抵抗なく再会することができました。

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