流動性のある労働力が社会を支える。
『どこへ買い物に行っても、そこにいるのは流動性のある労働者たちだ』と40年にわたってマーケッティングをしてきた知人の言葉にびくっとした。現実に即した日本語だ、メディアに流れるのは非正規雇用やアルバイト、パート、短期雇用や季節労働など統計をとるため、学者が論文を書くため、役人が白書を書くため、企業の安全弁のため、記者が記事を書くための符牒のような使われかただ。まるでそれは夏休みの自由研究で『ピンセットで昆虫の背中を刺して標本をつくり、名前を入れる作業に似ている』。要は自分の存在を消して、相手だけを分析(解剖)の対象とする行為で、知らぬ間にそういう言葉は深く人を傷つけてプライドを失わせているような気が私にはする。言葉が先で、次にその内容が作られる。たとえばうつ病という言葉が定義されるとうつ病患者が増えることに似ている。非正規や短期雇用も、要は人件費を削減するための雇用形態は『わが社もそれに倣ってみよう』と爆増したのではなかったか?しかし、ここでふと言葉の、「流動性のある労働者たち」という新しい使い方や定義が、未来の時間や雇用を生み出しはしないかという、淡い私の期待だ。動いていることは生きている証拠、あちこち動いていればきっと誰かに会えて運が開かれる、希望は未来の空白の中にある。43年間、現代の若者がしたくない仕事第一位の営業職をしてきて(私も実際、営業なんてしたくなかったが、ほかに能力がない)、歩きに歩いたので『流動性のある労働者たち』に分類されるだろうと思う。そして思うのは『誰に会うかわからない』面白さ。それも自分から行く能動的な出いなのでいつまでも忘れない。中には『頼むから1万円貸してくれ、大事な客が来るのでススキノで接待しないといけない』と懇願されることる。競馬新聞を持ってる人も多いから気をつけよう。流動性人間はたくましく、どこへでも行ける自信がある。自信と指先の器用もある。流動性のある労働者の時代はこれからも各所で必要とされる。
昔の少年。
例えば、コロナ禍で職を失った方々や、近々失いかけている方々の多い昨今。これまで、若者たちにあれほどまでに嫌われていたと思われる農業が急に陽の目を浴びてきました。つまり農業に従事する事が最後の生きる為の手段だと気づいたからです。しかしサラリーマン生活で慣らされ、綺麗な衣服を着て、力仕事と言えば、PCを叩くだけの、か細く白い指と、絶えず待遇に不満を持ち、当たり前のようにボーナスまで貰って将来設計を描いていた生き方と、まるで正反対の暮らし方に耐えられるかどうかは疑問ですね。農業団体のCMでは「だから農業は辞められない」などと農業人口確保を煽っていますが、仮にも私が子供の頃に体験した農業や林業での田舎暮らしは、そんな生やさしい物では無かったと記憶しています。雨が降れば傘をさして電車通勤した都会暮らしとは違って、宮沢賢治の詩の通り、日々の自然との闘いや上手な付き合い方を学ぶ所から、働き方や考え方も根本的に変えなければいけませんからね。そう考えれば農業ほど、どの職業よりも甘く無く難しい職業は無いかも知れませんね。農業人口が増える事には大賛成ですが、転職には相当の覚悟と信念と資質が問われそうですね。
seto
生きるための基本は食だということに若者が続々気づいてきたのはいいのですが、昔の少年さんが体験したような農業や林業(炭までつくっていた)や川魚採り、雑草狩りも加わり、知人の農家の人は「キリのない仕事がある」と言ってました。約60ヘクタールです。差新鋭のタブレットを買って遊んでもいますが。約20のビニールハウスもあるのでアスパラガスや苗床づくり(これが一番きつく腰を痛める)もあります。それと自然災害で強風でハウスが倒れたときは、打ちひしがれてました。収穫直前の野菜がありました。私も心配で見に行きました。農業への転職は大歓迎の農協ですよ。北海道中に移住者増えればいいのではないでしょうか?未来産業は農業しかないのではと思うこのごろです。