恵庭市にある縄文時代後期のカリンバ遺跡で発掘された、「注口土器」の3D表示を見ていて、不自然な点に気が付きました。

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/0123115100/0123115100200010/eni_doki/

注ぎ口がこんなに下にある形では、水が溢れてしまいます。また上から中が覗きにくく、溢れる前にストップする加減もわかりません。サイトを見ると、用途は葬儀用とありましたが、葬式だからといってだだ漏れで良いわけがないので、用途の説明にはなっていません。

(画像)

そこで自分で調べてみたくなり「注口土器」を検索すると、カリンバ遺跡以外の注口土器はどれも現在の急須ややかんと同様で、注ぎ口は十分上についていましたが、唯一函館の垣ノ島遺跡のものは、注ぎ口が下についていました。
https://jomon-japan.jp/archives/library/1791/
ですので、カンリンバの土器だけ間違って作ったのではなさそうでした。また、以前は古代の土器がどれも底が尖った不安定な形をしているのが不思議でしたが、近年ギリシャのアンフォラという大型で底の尖った壺を、地面の穴に突き立てて自立させている動画を見て、理由が納得いきました。建物に平滑で水平で安定した床ができるのは、ずっと後世になって、水準器や墨つぼ、鉋などができてからのことで、土の上にわらやむしろや毛皮を敷いた竪穴式住居には、平らな床がなかったでしょう。底を平らにしてしまうと、現在の一升瓶さえ立てておくことはできません。尖った底なら、むしろをよけて土に穴をあければ、すぐ壺の保管場所になります。
また、底を尖らせると、底をぶつけたときにも丈夫です。ガラスは土器よりずっと堅牢ですが、それでも中身の入った一升瓶などは、ちょっとした衝撃で底が抜けることがあります。

この土器には、砂状でも粉状でも注ぎ口に詰まるので、液体を入れていたと思われます。サイズがわからなかったので、用途も使い勝手も判別できませんでしたが、ほうぼう探してようやく10センチ程度らしいということがわかりました。小さな土器の、しかも下の方にだけ入れる液体ですから、貴重なものです。薬液ということもありえますが、まず酒でしょう。また、注ぎ口がついてるのは複数の人に分けるためだと考えられます。一人で飲むなら、酒瓶などから丼状のもので汲んで飲めばよいのですから。そこで、現代の三三九度やお屠蘇のような酒器を連想しました。
そのまま食べられる果実や穀物をわざわざ発酵させた酒は、今よりずっと貴重なものだったでしょう。注口土器に入れるときも、例えば柄杓一杯分というように入れる分量が決まっていたので、溢れさせることはなかったでしょう。注口土器の上部の筒状の部分を握れば、何人かに注ぎ分けるのも簡単です。

他の注口土器が注ぎ口が上についているのは、たっぷり入れられるほど生産量が上がったか、集落の人数が増えた後世のものかもしれません。カリンバ遺跡の時代には、お酒は少量を分け合い、ほろよいを楽しむという、現代人より上品な飲み方だったかもしれません。

*私の推理は注口が下についているのは、子供用に水を入れていた土器かもしれません。たくさん入れると重くなるからです。その口部分から飲めるからです。

*自分が住んでいる街の博物館にある土器だったのでこういう分析があるんだと感心した次第。先日撮影した縄文土器の展示物を下記に。

恵庭市郷土博物館

 

  1. 注口土器には装飾的なものもあって、酒のようなものを入れた事には違いないようですね。使用目的は、他の土器のような生活用では無く、儀式的な祭りごとなど特別な場合に用いたのではないかと言われています。或る古墳から発掘された場合ですが遺体の上に土が被された直後に注口土器が置かれた状態が多かったようです。不安定なそこが尖った形はそのような特別な儀式用だとすれば底辺部を土に挿して手向けたとも推測できますね。注口土器には様々な形があるようですが、現代のように情報伝達も思うようにできませんから、他の類似では無く、それぞれの土地で様々の様式が自然に生まれたのでしょう。それに、今のようにお酒もがぶ飲みできる代物では無く、貴重なものだったがために少量を注ぐ形になったのでしょうね。

    • 投稿者と同じ考えですね。恵庭にはカリンバ遺跡(カリンバとは桜の皮を指すアイヌ語)があります。縄文だらけで、今度探検に行こうと思います。古墳からも出ているんですね。調べてみます。

  2. 陶器職人の息子。

    この一本足のような不安定な形の器にお酒を入れると、絶妙なバランスで自立するのではないか?とまで疑ってしまいます。五徳のようなものでもあれば火にかけて鍋釜にもなりますが、一体なぜ?こんな形が多いのかと考えさせられますね。高床の住居では無く土間で生活していれば土間に穴を掘って底部分を穴に入れて安定させたのでしょうか?それにしてもイマイチ腑に落ちませんね。平らなそこの方が安定するのに?。

    • このあたりの地盤は泥炭で柔らかいので,地面に刺す形をとったと考えるのが自然でしょうね。太平洋からウトナイ湖、そして恵庭と舟でつながります。美々貝塚もその途中です。苫小牧千歳恵庭は、函館もそうですが、縄文土器おおい。縄文とアイヌって同じですか?

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