1951年に札幌で生まれた筆者は、ことし1月で64歳。長年住んだ地区は東区の苗穂といって旧国鉄の苗穂工場はじめ雪印本社、トモエ醤油本社、サッポロビール工場、ウィンターキャラメルを大ヒットさせた古谷製菓に囲まれて、アパートのベランダに出ると、風の向きで、きょうはホップとキャラメルの匂い、きのうは醤油と乳製品の匂いが鼻をつく食品工場エリアであった。豊平川の向こうには日本清酒や北の誉という清酒メーカーもあった。このあたりは、札幌の西側に藻岩山という山からの伏流水があふれ出す、食品の命の水が豊富に湧き出てきた場所でもある。煎餅工場やパンを作る家内工場も多くて、貧しい人たちは、私を含めて耳煎餅、耳パンという10円で山のように入った商品価値の低いビニール袋詰めを買いにいったものである。現在、スーパーで流行のお菓子の「理由あり商品」は、実はとうの昔から、捨てるものでも食べれるという思想というか常識がきちんと根付いていたのである。忘れていたが、さらに北には丘珠地区という玉ねぎの大生産地もあって、秋の収穫期には甘酸っぱい玉ねぎも匂いの競演に参加。ただし、困るのは苗穂工場がSLの修繕もしていて、ポッポーでも鳴らせば石炭の匂いで食品の匂いが台無しになることだった。私の口が卑しいこと、匂いに敏感なのも5感のなかでもっとも原始的な感覚の鼻が、15年間の苗穂の暮らしで培われたのかもしれない。そんなにアルコールを飲まない私はとにかく食べる。おかげで真正の糖尿病になってしまった。 そうであれば、私の書くものに、高尚なものを要求されるのは到底、無理だとご判断願いたい。

  1. 石の上にも三年。とか言われますが、六年ですか。感心に続いていますね。それもこれも読書家が故のブログネタがあるからですね。幼少期の環境は大切ですね。古い時代の古い風習や遊びなど二度と体験できませんからね。私の田舎暮らしに比べれば、当時としては都会っ子の部類ですね。私などは夏にはパンツとランニングシャツに草履でした。都会では通用しないスタイルですね。

    • 昔の少年さんの少年時代、うらやましい限りの自然に恵まれて、宝物をいただいているのではないでしょうか?都会では「原っぱ」で子ども同士遊んでいたころで懐かしい。自分たちで遊びをつくってました。カンケリ、ちゃんばら、ドッジボール、縄跳び、電車ゴッコ、ビータマ、パッチ(本州ではメンコ)、S陣取り、馬乗り、探険ゴッコ。捨てられたドラム菅も使ってカクレンボ。釘さしもありました。鉄くず拾ってお金に換えて駄菓子屋も行きました。次々、金のかからない遊びに夕食までいました。女の子はゴム跳びなんてパンツ丸見えで平気でしていた時代です。

  2. 本州から移住したころの昔の札幌はまるで外国でしたよ。桑園辺りの住宅の屋根がマンサード型でしたし、駅裏(北口)は寂しい商店がパラパラあるだけでした。道路も広かったですね。1月末の厳寒の札幌駅に降り立った時に驚いたのは、手袋も履かず、に鞄を下げ、革靴でバーバリのような薄手のコート姿で電車を待つサラリーマンの姿でした。翌日、札幌駅西口の荷物受け取り口に布団などのチッキを引き取りに行った時は、何と円山の燃料店で馬橇を借りて堂々と電車通りを行きましたね。いくら昔でも時代錯誤もいいところで、人の目が気にはなりましたけどね。若さで無茶を出来たわけです。また同じ市内でも円山あたりは閑静なたたずまいに夏はポプラ並木が清々しくて好きでしたね。手稲の駅前にも住んだことがありますが、当時は神社の境内から海も見えましたが、全く市外感覚でした。医大前に住んだ時には大通りを歩いて通り抜け東6丁目あたりまで二十数丁も仕事を貰いに歩いて行っていました。今なら遠くてとても歩く気にはなりませんね。一方、郊外の北34条に住んだ頃には道路は舗装されておらず、雨の日は革靴も泥んこになってバスに乗りました。札幌が変わったのは1972年のオリンピックでした。近代化も必要ですが、風情のあったあの頃の良きサッポロらしさは無くなってしまいました。昨日も新型の市電を見て少しガッカリした私です。

    • 北区と東札幌と苗穂以外に住んだことがないので、昔の少年さんのほうが昔の札幌について詳しいです。円山は動物園と登山と昆虫採集、神宮以外は行かないし、手稲も当時行ったことありません。医大も用事もなくて行かない。手稲人神社から海が見ええるとは!舗装道路は少なくて、北区・東区も砂利道です。圧倒的に車は少なく道路で遊んでいましたから。新しい市電はがっかりです。乗ってみるとわかりますが、ヒドイです。外の景色を見せるためとはいえ、客同士で交錯できない狭さで,不快な乗り物です。見てくれではなくて乗る人のことを考えない役所頭ばかりです。

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