「事件とは、すべての安定した図式を覆すような新しい何かが突然に出現することだ」(スラヴォイ・ジジェク)「事件!」~哲学とは何か~15p(2014年出版)。事件は誰にでも起きる。それがその人の一生を左右する。自然災害やスキャンダルも、政治運動も個人的な決断も含めて、「事件」だとすれば、きょうの延長で明日が来ると思うとまったく先の見えない事件が起きる。厳密には今日だってわかりやしない。地殻変動で大地震に見舞われたり、有珠山や樽前山が噴火したり、新千歳で演習中の自衛隊のジェット機が飛び込んできたりする。火事だってその危険がある。突然、見知らぬ人が包丁を持って現れるかもしれない。遠い国からの誤爆だって考えられる。私の住居は海抜14m。苫小牧沖で津波が15mの高さで来ると我が家は海水に飲まれる。さらに新千歳空港の下に追分断層が走るので直下型の地震も考えられる。明日だってわからない。自然っていつもそうだ。
しかし、これは外的な事件であるが、今の妻との出会いにしても高校の同級生との待ち合わせに10分遅刻しなかったら、地下鉄札幌駅の階段で彼女と再会しなかった。振り返ると、時系列的にこう書けるが、10分遅刻しなくても、別な機会に電話などして会ったかもしれず、ドラマチックに考えることもないかもしれない。子供の出現も事件だ。暮らし方が変わる、結婚して4回の転職は多過ぎるかもしれないが、首になった社員を救うべく組合運動をして疲れて離職もした。33歳でようやく安定した仕事に就けたが、68人の応募があって、応募者に誰も広告代理店経験者がおらず、私一人採用された。就職も転職も運の強さに支えられた。まあまあの待遇のおかげで戸建てを持ち、二人の子供を大学まで行かせられた。
しかし、振り返ると人生は偶然の塊、運の鎖でつながってる。私の世代は意外や転職経験者が少ない。終身雇用に守られて、60歳で仕事を辞めて、金銭には困らないが鬱々とした60代70代を過ごしている。しかし、一見「安定した日常」を送っているようでいて、子どもの病気や結婚、親の介護、自分や配偶者の病気など悩み事には事欠かない。突然、出現する事件によって右に揺れ、左に揺れ、ときに沈没することだってある。その覚悟で日々生きているつもりであるが、しんみり一人にならないと実感できにくい心境だ。「事件とは、すべての安定した図式を覆す・・」

