タイタニックと洞爺丸。譲る行為など。
映画「タイタニック」でディカプリオ君が、自分の浮き輪を愛する彼女へ渡して沈んでいくシーンを見てたくさんの人が泣いた。1912年4月14日の事件だ。
実は同じことが、青函連絡船洞爺丸(1954年9月26日)沈没事故にもあった。台風の目に入り、一瞬、静かな天気になり台風は去ったと思い出航した船へ突然の大嵐が襲い、死者・行方不明1155人の大惨事だった。そのとき乗船していた3人の外国人の宣教師のうち誰かが自分の浮き輪を見知らぬ人へ渡して沈んでいったという。(文春文庫。上前淳一郎・洞爺丸はなぜ沈んだか)。筆者3歳のときの台風で、激しい雨風だったくらいの記憶だ。
自分の生死を左右する浮き輪を差し出す行為を、自分が果たしてできるかどうか怪しいなあと感じながら、実はほとんどが我先に生きのびる選択をするだろうなとも感じて、しかし、それを誰も責められないなとも感じて、複雑な心境になる。
宣教師だから、できた行為だとも思えなくて、十分、普通の人々も宗教に関係なくする人はするだろうと推測する。人生において究極の選択を迫られるのは、一番は結婚かもしれない。しかし、これは生死を分かつという意味でもなくて、比べる事案はないなあと思う。しかも瞬間的に反応するのだから、凄いことを人間はやってしまう。
映画の世界ではなくて現実の世界でこれができるというのは凄い。いつだったか、プラットホームから落ちた人を助けようと飛び込み、みずから犠牲になった学生(?)がいた。たくさんのお客さんがいた中で、なぜ彼だけがそれをしたのだろうか?普段からそういう価値観を自分の生きる常識として暮らしていたとしか思えない。たぶん、彼を知る友人たちから証言を集めれば「なるほどそうか」とうなづけるトピックが集まるかもしれないし、ないかもしれない。
それから考えたら、席を譲るとか、地位を譲るとか、引退するという行為がいかに小さなことで、結果として後々大正解であるかと思うのである。攻める生き方には強いが、撤退戦には弱い企業風土で、これから価値ある生き方は、譲っても、引退しても、別に命を失うわけでなくて、沢山の人から大喜びされる行為かもしれない。背中を見せて黙って去る、浮き輪は渡せなくても、海に沈むのではない人生が待っている。昔、よく見たヤクザ映画の影響かな。一度トップに座り、引き際を間違える経営者をたくさん見て来て、強くそう思う。社員に愛情があるなら、彼らに浮き輪を渡して欲しいものである。
昔の少年。
洞爺丸には友人の父も乗船していて亡くなられた一人ですし、青函連絡船で北海道に渡り現在がある自分も猛吹雪の1月に吹き込む雪の船内で真っ暗な海を見て不安に駆られた事を思い出します。当時の気象情報も気象衛星なども無く感に頼る航海だったのでしょうが余りにも多くの人命を失ってしまいました。船長や艦長は最後まで船と共にが暗黙の了解のようですが、或る国の船舶事故などではいち早く船長が逃げて救出されたりしていますから、自分を置いても人命救助の精神は、その人個人の生き方でしょうね。普段どんなに立派な事を言っていても、行っていても、イザとなれば、その瞬間に出る行動で初めて、その人の本質を知る事になるのでしょうね。
seto
昨年、函館に行き、連絡船の船内を見学してきました。懐かしい限りで、これに乗ると「本州」異国へ行く海の回廊でした。一番安いカーペット席で横になりました。揺れが強くなるのは海峡の中にきたとき。そして静かになると青森です。満州から逃げてきた人たちも偉い人から順番に列車に乗り帰国しましたね。インパール作戦を指揮した人は満州でノモンハン事件で失敗した男でした。インパールのときも真っ先に帰国してきました。戦前と同じ価値観で現代の官僚もいるわけで地続き。失政があっても国民に大迷惑をかけても責任は誰も取りません。むしろ末端の兵士(役人)が自死したり、うつ病を発症しても、「助ける」精神が欠如集団です。言論界で哲学界で「利他」の精神が主要テーマになってきてます。これって、昔の私の少年時代の長屋の生き方、落語的な人生にそっくりだと思っていろいろな本を読んでいます。「俺が俺が、私が私が」と自己主張する生き方では、世界は成り立たないということに気づきだしたのかもしれません。「国家主権」や「国境」もヨーロッパ的な概念では、いずれ衝突と戦争が不可避です。中世から国境線の変更は必ず殺し合いがありました。遊牧民から見たら草のあるところを自由に行き来できるはず、観光客と遊牧民は似ています。場所を譲る気持ちがあればずいぶん楽な人生になると思うのです。