タンチョウ 今井昇撮影(伊藤サンクチュアリ)

これまで、ダイハツ車のボデイーづくりを30年してきた娘婿。4月の人事異動で海外からの研修生に車づくりを教える担当になった。先日帰宅した娘に「お父さんのブログにこれまでの車づくりから人づくりに代わったと書いて欲しい」と言われて書くわけだ。いま、アフリカのセネガルから来た研修生に教えている。婿は現地語でのあいさつの勉強真っ最中。以前、マレーシアへ単身赴任したときも、初の国産軽自動車を生産するため技術者として選ばれ、クアラルンプールに1年半駐在した。製造ラインからマレーシアの国産1号車が出てきたとき、当時のダイハツ社長からハグされ、全国のダイハツ社員に拡散された写真がある。彼は一昨年、「あのときが自分の仕事人生で最高なときであったし、本当に無我夢中で働いた」と振り返っていた。彼によるとマレーシアは元々三菱自動車が高いシェアを占める。大分中津工場近くにもマレー人やインドネシアの研修生が来るので、前から彼らの世話もしていてイスラム教徒が食べてはいけない食品を外してお菓子や果物を彼らの寮に届けている。「セネガルの人はレゲイでもやりそうな、顔の小さな背の高い人たちだ」と言っていた。セネガルがいったいどこにあるのかも調べていた。婿さんの顔も浅黒いので彼らにとっても親しみやすい先生になっているんだろうと思う。兄の娘婿は単身シンガポールで現在水族館づくりを手助けしている。東南アジアは水族館がブーム、大学の建築設計課で勉強して自分で図面を引けるから、建築交渉に加えて日本へ塩ビ管の発注をしている。コロナのリスクを減らすため、自宅からタクシーで現場まで行くようにしていると兄は言っていた。水族館がオープンしてたくさんのシンガポール市民が訪れる日を夢見て毎日、頑張っている。どちらも40代だ。クアランプールで車づくりを教えているとき、娘婿の感想は「彼らの学ぶときの目の色が真剣で怖いくらいだった」と。。目の色が変わるほど真剣なモノづくりの志向があれば、まだまだこの国も変わり得ると思った次第だ。マレーシアを離れる日、山のようなお土産と子供へ民族衣装が贈呈された。見えないところで民間の外交官がいる。

  1. 日本は、これまでにも農業や工業技術を各国で教えていましたね。それが今や韓国でも中国でも自国での生産消費はもとより海外での生産までするようになりました。その他アジアなどの国でも戦後の日本人の真面目さが後進国の人たちにも受け入れられたのでしょうね。障害は言葉の壁ですから英語だけでなくお互いの国の言葉の勉強が大事ですね。騒がしい世界情勢ですが、平和的な交流として日本が教えてあげて助けてあげれる事はまだまだありそうですね。

    • もっと自信をもってモノづくりに向かって欲しいし、地道にしている人たち多いと思いますよ。変に「ニッポンバンザイ」のTVづくりでなくて、現地の人と生きている毎日の暮らしですね。アフガニスタンの中村哲さん、イランの井筒俊彦さん、亡くなった緒方貞子さんなどお手本はたくさんいます。韓国や中国へも日本の電器業界の人がわたっていきました。サンヨーやシャープなど。台湾もそうで、今回ダイハツの軽自動車もブランド名は現地のオリジナルの名称になったそうです。そういう意味でモノづくりの信頼度を上げることは大事だと思うし、それが平和外交の支えになると思いますね。

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