象形文字

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ヒエログリフ

9月8日に第2章「生命の水路」。きょうは第3章「精神の道具」としてテクノロジーの世界に踏み込む。社会学者のヴェブレンやマルクスの見方、「テクノロジー決定論」から。

テクノロジーの進歩は人間のコントロールの及ばぬ自律的な力であり、これが人類史に影響を与える第一のファクターだと考える。「風車は封建領主のいる社会を与え、蒸気機関による製粉所は産業資本家のいる社会を与える」(マルクス)。マクルハーンのメディア論でも、人間は「機械世界の生殖器官」、本質的な役割は、さらに精巧な道具を生み出していくことだと。

その対極が道具主義だ。道具は単なる中立的な人工物で、我々の意識的な欲望に完全に従属するので、目的を達成するために使う手段だと言う。いま最も支持されている見方だ、というか、そうであって欲しい希望を込めて支持されている。テクノロジーを、どの道具をどこで使うか、意識的に人間は選択しているはずだ。

しかし、カーは「歴史的・社会的にもっと幅広い視野で見れば、決定論者の主張の信用性が増してくる。〈中略)テクノロジーの副作用をも含めて、我々は選択をしていないことがわかるだろう。テクノロジーが使用され始めたとき、副作用は予期されていないのである。」(73p)「自覚されることはほとんどないが、我々の生活のルーティーンの多くは、われわれが生まれるずっと前から使われ始めたテクノロジーに規定されている。」

しかし、カーは思考の産物として目に見えるもの~芸術作品、科学的発見、文書上の文字たち~ではなくて、目に見えないもの、とりわけ人間の脳へ与える知的テクノロジーの影響を考えるのだ。「身体は化石になるが、精神は化石にならない」(75p)1841年、エマーソンも「できるものならわたしは喜んで、冷静に、知性の自然史を展開するだろう。だが、そのような透明なものの進展の段階と境界を誰が見極められるというのか」。そのころのアメリカも産業革命の勃興を見ている時期だ。

その透明なものが、大脳にある神経可塑性の発見、神経系が拡張したり(足りないところを補う作用がある)して、あらゆるテクノロジーが、歴史を通じて、思考や記憶に影響を与えて、人間精神の構造と機能を形成してきたと教えてくれる。

この4万年のあいだ、人間の脳の基本構造はほとんど変わっていないが、遺伝子レベルでの進化は、繊細なゆるやかさで進んできた。ところが、人間の思考方法と行動がこの数千年、原形をとどめないほど変化した。H・G・ウェルズ「社会生活や習慣は完全に変化し、逆転や反転すらこうむっているのに対し、その遺伝形質は、石器時代以来ほとんど変わっていない」。

知的テクノロジーの使用によって、脳内のシナプスから出る化学物質の流れに変化が生じて、脳が変化してゆく。学校教育、使用するメディアによって子どもたちに思考習慣を手渡していくとき、当然、脳構造への変化も手渡されたことになる。たとえばロンドンのタクシー運転手が自分の記憶よりナビゲーション地図を頼るようになると空間や記憶に関わる大脳の海馬という部位が、収縮する一方、複雑で抽象的な視覚情報を解読する部位は拡大する。「道具の要求にわれわれが応えているのである」。パソコンを初めて触った日のことを思い出すとよくわかる。われわれの要求に道具が応えているのではないということだ。

地図がありふれたものになると、人間の方が精神的にも社会的にもその知的テクノロジーへ適応や強化を強めていく。GPSの使用など。自然や社会のあらゆる関係も地図の比喩として、空間的に固定された配列として思い描く。視覚情報で判断する「マッピング」を始めた。グーグルマップもバイクに車載カメラを付けて作成する超アナログのデジタル化だけども。

3章の後半は言語論で、ポイントは「識字能力のある者とない者とでは、さまざまな点で脳が異なっていること」、それは視覚記号の大脳での処理方法、推論、記憶形成まで及ぶこと。書くことのテクノロジーはシュメール人の楔形文字、エジプト・中国の象形文字が始まりだが、はじめはこれを使えるのは知的エリートに限定されていた。複雑な文字ゆえ、単純化されず多数者への道具にならず、アルファベットの出現をまって普及したこと。知性の革命の始まりである。

しかし、エジプト王タモスは「文字は人々の魂に忘れっぽさを植え付けるだろう。人々は文字に頼り、記憶力の行使をやめてしまうだろう。みずからのなかから物事を思い出すのではなく、外に記されたものから呼び起こそうとするようになる」2500年以上前の言葉だ。さらに「文字に頼って知を得ている人は、多くのことを知っているように見えるが、たいていの場合は何も知らない」人になり、「その人々は知ではなく、知を有しているといううぬぼれに満たされる」。

ここは、記憶として想起するときに使う大脳神経、お話として学ぶ者の魂に刻まれた言葉が「文字を仲介することで内なる記憶を外の記号に置き換えることでより浅い思考へ」我々を変える恐れがあることを述べる著者はまだインターネットの脳へ与える影響について第3章までに直截な表現はまだ出てこない。

*エジプト王タモスの言葉(これはソクラテスがプラトンに語った話に出てくる)は、いまの政治家や学者、霞が関の官僚たちとちっとも変らないと思って私は読んでいたが・・・・・・。

 

  1. 僕のクルマにはスマホをハンズフリーで使えるブルートゥース機能があるが未だに使ったことが無い。もちろんGPSでマップ検索機能も駆使すれば便利だと言うが煩わしい。暗がりになれば自動的にライトが点くオート・ライトも使用しない。ワイパーも雨量によって速度が自動的に変化するが煩わしい。制限速度をセットすれば交通違反も無いわけだが使わずに2回ばかり覆面パトに捕まった。ブレーキは15km/h以上で接近し過ぎれば自動的に働き追突を軽減するらしいが恐ろしくて未だに信用できない。最近ではオプションで車間距離を一定に保って前車に追従走行する装置さえある。以前BMWなどはオート・ライトが無かった。人間がすべき確認動作を残す設計思想だった。クルマに限らずあらゆるモノがイージーになり過ぎて思考しなくなりつつある。現代人はすべてお膳立てされたモノの前で取り扱い説明書から知識を学ぶ。あるいは他人から聞いて覚える。PCは便利で辞書さえ不要に?なった。おかげでここ数年間で文字は読めても書けなくなってしまった。おまけにまた視力が落ちて昨日は眼鏡店に行かざるを得なかった。象形文字から文字がツールとされメディアや産業の発達から生まれた文明の利器はエスカレートして思考方法を変えてしまっているのは確かだ。しかしほとんどが電気に頼っている現状で果たして安心なのか?。当然アナログ化するであろう首都圏の交通機関を狙った犯罪や災害時には、官邸の災害対策本部など、通信網に頼り過ぎていて機能するはずも無いだろう。あらゆる災害や有事の際にも最終的にはアナログ化に戻る事を考慮すれば原始的と言われても人間本来しなければならない最低限の基本行動などの知識が継承されなければならない。昨日のTVニュースの栃木・茨城の大被害を見て思い出したが、亡くなった父が若い女性によく言っていた「あんた達、そんな恰好じゃあ逃げられないぞ!ズボンを履け!」と。関東大震災も、東京大空襲も、福井大震災も、あらゆる災害を経験済みの父の言葉は今も耳に残っている。

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